見出し画像

【映画】サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)/クエストラブ

画像1

タイトル:サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)
監督:アミール”クエストラブ”トンプソン

10年ちょっと前、西新宿の有名なブートレグの店でスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのライブDVDを買った。ブートの映像はテキサスポップフェスティバルと書かれたライブが収録されていて、客席側からステージを俯瞰できるくらい引いた固定カメラのアングルから始まる映像は、生々しさよりもどこかさっぱりとしたステージの印象が強く、当時のフェスティバルのひとつくらいにしか思ってなかった。

画像2

このブートレグDVDは、真ん中にデカデカと管理番号らしきものとタイムコードが出ていて、テレビで放映されたものか何かだろうと思っていた。映画を観るまでは。

映画が始まって冒頭スティーヴィ・ワンダー登場のシーンの後ろに写るステージのパネルを観た時に「これスライのブートのあれじゃん!」と即座に気が付いた。未知のフェスティバル映像を取り扱った映画を観にきたはずが、部分的によく知ってる光景の登場と、ブートの映像はテキサスではなくてハーレム・カルチュラル・フェスティバルだったのに気づいた事で少しばかり困惑してしまった。
パンフレットに収録されているクエストラブのインタビューで、このライブ映像を東京の飲食店で観たという話があって、おそらく誰かが西新宿のブート屋で買った物を店で流していたとしてもおかしくないような気もする。ブートの映像は恐らくフェスティバルからだいぶ経ってから編集されたような感じで、各アングルの映像がクロスフェードする感じはフィルム編集というより80年代以降のビデオ編集みたいな代物だった。そう考えるとクエストラブが97年に一度観た時よりも前に、何らかの形でスライの部分だけリリースしようとしてた形跡なんじゃないかなとも考えられるのだれど、詳細な情報がないのでこの辺りは想像するしか無い…。ただ、残されたフェスティバルの映像に価値を見出した人はこれまでにもいたという事ではあると思う。
残念なのは、スライの部分のライブ映像を通しで観ると映画ほどの高揚感は感じられず、演奏の熱気よりものんべんだらりとした印象が強い。スライも出演したウッドストックの映画の高揚感に比べると、こちらは画的に何か弱い。それを裏付けるように、クエストラブのインタビューでも最初3時間超あったものを、切り詰めて2時間弱に収めて編集したら良くなったと書かれていた。ライブ映像を通しで見せるよりも、フェスティバルのピークの瞬間に絞り込んだ編集した事で、熱気に溢れた演奏が中心になっていたので、まあそういうことなんじゃないかなと。

サマー・オブ・ラブの年でフラワームーブメントが終わりを迎えようとしていて、キング牧師やマルコムXはすでに殺害されて、ブラックパンサー党のアンジェラ・デイヴィスが逮捕される前の時代(アップルTVの1971で本作の副題となったギル・スコット・ヘロンのrevolution will not be televisedと共に詳しく取り上げられているので合わせて見た方が良いと思う)。
ハーレムという場所もそうだけど、この時代はまだ音楽が人種によって棲み分けされていたのだなと改めて気付かされた。元々レイスミュージックと呼ばれて人種で棲み分けられていたR&Bが、垣根を超えてクロスオーバーは徐々に進んでいたけれど、奏者自体の人種からイメージするハードルはこの時点でも依然高いものだったと。どうしても今現在の視点から見ると、そのあとのダニー・ハサウェイやロバータ・フラックなどの70年代以降のソウルから辿って地続きで考えてしまうので、時代の狭間にある微妙なニュアンスは当人たちの証言が無いと見落としがちになってしまう様な気がした。
映画の中でそれが顕著に出たのがフィフスディメンションのメンバーの語り。それ以前にアレサ・フランクリンやディオンヌ・ワーウィックがバート・バカラックと組んでいたような事例があるから、なんとなくこういった音楽も受け入れられていたんだろうなとは思っていた。R&Bらしくないという悪評があったのも知ってはいたけれど、ブラックミュージックの世界の中でも受け入れられたいと踠いていたと語られるシーンはこの映画の大きな見所だったと思う。彼らが取り上げたジミー・ウェブのUp up and awayやローラ・ニーロのStoned soul picnicといったヒット曲だけを聴いていただけでは分からなかった部分でもある。

スティーヴィー・ワンダーは自作曲をメインに自立する寸前でこの頃の心の迷いが語られていたし、ステイプル・シンガーズもI'll take you thereの全米ヒットも数年先。スタックスのワッツタックスも同様。大きな変化を迎えた60年代から来るべき70年代への過渡期の様子がしっかりパッケージされている。

ハービー・マンのバンドで演奏するロイ・エアーズの姿が確認できたり、貫禄のあるマヘリア・ジャクソンの歌も凄いが、ニーナ・シモンの歌とピアノが圧巻と見所も多い。レイ・バレットの登場でプエルトリコ系の話も出てくるが(10年後のブロンクスのヒップホップを描いたワイルドスタイルでは、黒人だけじゃなくてプエルトリカンが多く登場していたことも観ていて思い出した)、黒人だけじゃなくて黄色人種やプエルトリカンなど白人以外のマイノリティへの思いが映画の中で人々が口にしている。この辺りは、昨今のBLM運動を考えると根本にある軋轢は変わっていないどころか、新たな分断も生み出してしまっている状況に照らし合わせて考えさせられる。これはクエストラブが今語るべきものしてしっかり入れ込んだメッセージの様にも感じられる。
冒頭のブートの話で水をさしてしまったけれど、スライの登場で観客が雪崩れる様に、ステージに集まってくるシーンの熱気がすごい。いかに彼らがこの時代の寵児だったのかがよくわかるシーンだった。Sing a simple songとEveryday peopleのあっけらかんとしたシンプルなメッセージも、人種の壁を越えようとする姿勢が込められている。
観客の様子を見ていて良いなと思ったのが、子供があちこちにいたり、黒人の群れの中に白人も混ざっていて自然に楽しんでいるところだった。
公式に撮影されたもの以外にも個人で撮影されたものが発見されたと、クエストラブのインタビューで語られているので、他にも撮影されたものが発掘されればライブ部分だけの映像がいつか完成するのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?