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【映画】あのこは貴族/岨手由貴子

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タイトル:あのこは貴族
監督:岨手由貴子

 東京で生まれ暮らしていると色々な出自の人々に出会う。僕はといえば東京の城南地区の大田区で育ち、東京の中で進学し今の仕事に至るまで暮らしてきた。映画の中のキャラクターで考えれば、どれにも当てはまらないのだけれど、生活水準は美紀に一番近いのかもしれない。僕の家庭は間違いなく裕福な家庭ではないし、劇中冒頭の会食シーンを見ていると息がつまりそうになる。 
 東京の友人関係で言えば、松濤出身の人もいるし、神戸から慶応大に進学した友人もいる。慶応ではないけれど、青学の初等部から通っていた女の子との付き合いもあった。この女の子は本作の華子の様な家柄まではいかないものの、金銭感覚はちょっと僕とは違うんだなというのは付き合いの中で常に感じていた。地元でも代々続く家柄の人もいたし、それ以外でも私立の中学から大学まで通っていた人もいた。東京で暮らす人々はこの映画に出てくる様な家柄ではなくても、華子と美紀の間に位置する階層がグラデーションになっていて、その部分も厚い層になっている。東京にはこの映画に出てこない、それとは別の人々の顔があるのも事実である。東京に元々暮らしている人々が全て貴族かといえばそうでもない。外から見れば同じ様に見えるかもしれないけれど、内実はこの映画ほど上下ではない中間がいる。

 この映画では、地方出身者と都内の中でも中心部で暮らすハイクラスの人々とのコントラストが描かれている。服装や仕草、タクシーと自転車、ホテルのカフェや大衆居酒屋など食事をとる場所といった対比がそれぞれのキャラクターの出自を浮かび上がらせる。華子はバーキンのバッグを提げ、美紀の友人の平田はコーチのバッグを提げているところなんか生々しい。以前松濤の幼稚園の前を通りかかった時、園から出てくるママさんたちがみんなバーキンのバッグを提げていて、松濤に住む人々の水準をまざまざと見せつけられた様な気分になったのを覚えている。コーチのバッグというのも、地方出の女の子が背伸びして持つブランドという位置関係にリアルさがある。都内で暮らしている限りはタクシーを使わずとも移動できる。華子が常にタクシーで移動しているのに対して、美紀は自転車で移動している。キャバクラ嬢であればタクシーを使って移動しそうなものだけれど、もともと学費を稼ぐために働いていたという金銭感覚がにじみ出ている。こういった一目で分かる登場人物のあり方が若干ステレオタイプではありながらも、緻密に構築されていて、すうっと画面の中に自然と収められているのがすごい。
 かたっ苦しい家庭の中で華子の素のまま、台所でジャムを掬ってしゃぶるシーンはすごく良かった。10離れた姉の旦那との兄妹の様な関係の最中に、心が緩む瞬間としてこのシーンが挟まれたのは、華子の中にある少女性と、されど一人の人間という描写があふれていて心和む瞬間でもあった。
 美紀と平田が東京は地方出の人たちから搾取しているという台詞があったけど、片や華子や幸一郎も家柄というレールに搾取されている。幸一郎が夢なんか無くて目の前の現実に突き進むしか選択肢がないというのは、彼らも搾取される立場なのではないだろうか。じゃあ一体誰が搾取しているんだ?と考えると、途端に見えざる力というか空疎な力場だけが浮かび上がってくる。家柄を継ぐものという強制が働く力場は、幸一郎の祖父の姿に集約されている。長い年月が生み出した家系の磁場というのが、家柄の外からの外圧によって作られている様なそんな印象を受ける。中心に行けば行くほど言葉では表せない家柄という空疎な世界が広がっている。華子の家族にとってはそれが結婚というひとつの終着点であったかもしれないけれど、幸一郎にとっては通過点でしかないのがふたりの大きな軋轢になったと言える。
 映画ではシスターフッドというのが大きなテーマとなっているのだけれど、実際は幸一郎の家族の様に男性社会の縮図が描かれている。詰まる所シスターフッドな描写から浮かび上がるのは台詞にもある様に、「社会を動かす一握りの家系の男性たち」という像が露呈される。今の与党やオリンピックに関わる問題の中にミソジニーが含まれるのを見ると、こういった政治や社会を動かす立場の人々の多くがこの縮図に現れている様にも思える。表面的には華子や美紀らの女性の自立を描きながら、社会の権力を持つ立場の人々の絶対的な力関係も浮き彫りになっている。この映画は、弱い立場の女性が結託し自立に向かうという希望を託している。絶対的な権力のレールに対して、僅かな光を探し当て立ち上がろうとする女性の姿を描いていたのだと思う。
 「女の敵は女」という対抗図とは違う生き方の提唱でもあるのだけれど、現実はそううまく行くのかなという感覚もある。キャバクラという女性同士の抗争の場を掻い潜った美紀というキャラクター(水原希子の怪訝そうな演技は素晴らしかった)がもたらす関係や、ふたりを繋げる相楽というキャラクターも石橋静河あっての描かれ方だった様に思える(とはいえこの映画での石橋静河のあり方は凄く魅力にあふれている)。
 この映画が素晴らしいのは、昨今溢れるマイノリティーの描き方にあると思う。ステレオタイプな描き方が癪に障る人もいるとは思う。その部分にある種のファンタジーを感じなくはない。でも何でもかんでもマイノリティーの形を盛り込む映画の多さに辟易しつつある中で、ピンポイントで弱者と強者のコントラストを捉えた点では傑作だと思う。例えばみんないい人に徹底してしまった「ブックスマート」の様な軋轢の無さ(軋轢がないわけではないけれど簡単に解消されすぎている感は否めない)の様なものとは違い、立場上嫌な人の印象を感じさせる登場人物(わかりやすいのが冒頭のお見合いやバー、居酒屋に登場する男たち)も描かれている点で、この映画の持つ強度は今後のマイルストーンになり得る予感を感じる。観た人に環境は違えどしこりを残す手応えを感じさせる。そう言った映画だと思う。


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