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【本】緑の歌/高妍 Gao Yan

緑の歌

三年前に「緑の歌」というZineの存在を知って手に取って読んだ時、本の形をした細野晴臣と東京へのラブレターのように感じた。Zineという体裁もあって僅かなページ数の中に、細野晴臣の音楽との出会いから、知らない世界がどんどん繋がっていくヴィヴィッドさに溢れていた。それは淡い恋心を抱くような想いがじんわりと体を包んでいくような感覚があった。大きな事件が起こるわけでもないし、日常の些細な出来事の中で起きるささやかな希望が綴られている。もっとこの世界に浸りたい。そんな気持ちにさせられる一冊だった。

感想をツイートしたら翌朝、高妍さん本人からリプライが来た。海を隔てていても、すぐに気持ちが相手に伝わるのはすごい事だと思う。

昨年、同じタイトルで連載が始まるのを知って、読むのを楽しみにしていた。38pほどだったZineが上下2冊に拡大されて、薄まることなくより濃密な世界観が広がっている。細野晴臣の音楽とボーイミーツガールの話に、海辺で自殺した男性の影や、破裂したクジラの話。つげ義春(というよりもガロっぽいというか)のような死を感じさせる不安さは、二十歳前後の少女の不安さを代弁しているようである。生きることの真横に並ぶ死。しかし、重苦しい内面がのしかかるわけでもなく、死の形がただそこに横たわっているような、不思議な感覚がある。主人公緑の一喜一憂する感情の起伏の新鮮さと、対をなすような静かな描写は記憶の中から湧き上がり、希望へと書き変わっていく。

エドワード・ヤンの話が出てくるが、80年代から90年代の台湾ニューシネマは世知辛いものが多い一方、イー・ツーイェンの藍色夏恋など、恋愛ものの名作も多々ある。それらの映画に出てくる街並みを見ていると、日本のどこかの風景のように感じられ、目の前の道の先にあの街と繋がっているんじゃないかと錯覚する。台湾には行ったことがないのだけれど、映画で見知った風景が「緑の歌」の中の風景と重なり合い、そこに漂う空気や温度や湿度が肌の記憶から呼び覚まされる。

緑が細野晴臣の音楽や彼に接した時のどぎまぎしている様子を見ていると、僕が街で細野晴臣を見かけた時を思い出す。10年ほど前のある夜。僕のお気に入りのカフェに行った時、席に座り隣のテーブルを見ると細野晴臣が連れの女性と座っていた。真隣にいるのに、好きすぎて声をかける事も出来なかった。怪しまれないように心がけながらも、どうしてもちらりちらりと見てしまい、隣のテーブルが気になって何を食べたのかも今では全く思い出せない。
結局声をかける事なく、店を出て緊張から解き放たれたのを感じて胸を撫で下ろした。後から考えればひと声かけても良かったかもしれないけれど、どうにもその一歩を踏み出す勇気が出なかった。その場を邪魔したくない気持ちもあるし、いやな気分にさせてしまったら嫌だななどと、言い訳がましくも自分を納得させるように言い聞かせた。
もし緑が同じ状況に出くわしたら、どうしていただろう?僕と同じくらいドキドキしながら細野さんに話しかけただろうか?
そんな事を読み終わった後に考え、本を閉じた。

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