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オーストリア帝国とハプスブルク家

オーストリアの首都「ウィーン」

何気なくBSをつけていたら、Vienneとかいうタイトルで持ってウイーンを紹介されているので混乱しておりましたら、フランス語の表記だったのですね。ウィーンというのはドイツ語表記。オーストラリア自体はヴェアンというそうです。

ウィーンといえば、音楽の都。
それから、千年王国ハプスブルグ帝国の首都でもあります。

ハプスブルグ家出身ルドルフ1世が1273年に初めての神聖ローマ帝国の皇帝となってからもしばらく対立が続きますが、15世紀半ば以降より皇帝位独占するようになります。それからの7百年間はフランス革命やナポレオンによって分裂が起こったりするわけですが、帝国最後の皇太子だったオットー・ハプスブルグがなくなったのは2011年7月で、1912年生まれ、享年98。彼は1916年、帝国廃止以前にハプスブルグ帝国の皇太子になっています。(帝国廃止は1918年)過去の話ではなく、ほんの最近の話になっていますが、埋葬の方法は昔ながらの方法がとられていて、

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Wikiの抜粋ですが、心臓だけハンガリーに他はウィーンの皇帝廟に納められているのです。

これは養老孟司「身体巡礼」で読まない限り、全く興味が湧かない事実。それがこの21世期に行われている事実。本との出会いは奇なるもので、求めているものとは別のところに興味の矛先を向けさせられるわけです。かと言ってこの本を読んでやはり墓や埋葬の方にはてんで興味が湧かないので困ったことになるかと思ったけれど、さすがそこは養老先生、話が結構逸れるのでそこで面白かったところを拾いつつやっぱり楽しめてしまいました。

というわけでしばらくこの本を使って、ヨーロッパの見聞を広げていきたいと思います。

まずは「ウィーン、オーストリア、ハプスブルグ家」   

あまりにも世界史を知らないので、改めて勉強し直すとして オーストリアがオーストリア帝国として巨大だった19世期の始めから、20世紀までにドイツ帝国に締め出され、ハプスブルグ家が弱体していたこともあってハンガリーと手を取り合うことになります。オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)、そこにはチェコ人、セルビア人がおり、冷遇されていました。そこから起こるサラエボ事件。

サラエボ事件については学校で習う割にとてもサラッとしていた気がする。青年が起こした事件が大事になったとしか思っていなかったのですが、そういえば、青年が撃ったのはオーストリア皇太子。その人こそハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ ハプスブルク。最後の皇帝。皇太子夫婦は二人ともこの襲撃でお亡くなりになりました。因みに2人は貴賤結婚だったため、埋葬方法は自分の居城になっています。カプツィーナの納骨堂には入れてもらえません。でも、愛し合ってたって感じで私はこちらの方が好きですけどね。

まさか、サラエボ事件で暗殺されたオーストリア皇太子の埋葬方法が気になるとは思いませんでした。ハプスブルグの血はまだマリアテレジアの系列が残っているようですが、帝国はもうありませんから、この埋葬方法が行われることはもうないんですね。千年王国、神聖ローマ帝国。ローマに憧れ、ローマに散る。そんなヨーロッパにとって離し難きものそれがローマ。そう理解して今日はこれにて。

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