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千年後の世界を探していて、海野十三氏のことを知り(千年後の世界 Kindle版)横溝正史邸の謎が解ける

Kindle無料で入手しましたが、青空文庫が元なのでそちらでも読むことが出来ます。

知りたかった千年後の世界(次の物語を書き始める前の予備知識として)は、このお話の中で『いよいよこれから』というところで、尻切れとんぼに終わります。
でも、おかげで海野十三氏のことを知ることができました。

海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。日本SFの始祖の一人と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。
徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。
1928年、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
太平洋戦争以前には軍事科学小説を量産していたが、開戦後はその方向の作品の発表をやめ、ユーモラスな金博士シリーズなどを執筆。1941年10月、海軍従軍作家として徴用令状が届き、1942年2月11日から3月28日まで当時南方ラバウル方面で活動していた青葉型重巡洋艦「青葉」に乗艦する。徴兵検査で第二乙種となり不合格だった海野は、軍艦に乗艦したことに感激。2月21日の妻への手紙に、極めて強い印象を受けたことを記している。健康を害し、4月30日帰国。その後、敗戦に大きな衝撃を受ける。
戦後、戦争協力者として公職追放処分をうける。
1949年5月17日、結核のため東京都世田谷区の自宅で死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/海野十三

十三と横溝正史
十三が『新青年』編集者だった横溝正史と知り合ったのは昭和2、3年頃のことで、当時電気試験所勤めだった十三は本名の「佐野昌一」名義で短編探偵小説を発表しており、これを気に入った横溝が、延原謙に頼んで延原の家で紹介してもらってのことだった。さっそく原稿を依頼して書き上げられたのが、『電気風呂の怪死事件』だった。
この『電気風呂の怪死事件』が校了となり、目次を書く段になって編集者仲間だった渡辺温から、「ええと、電気風呂の作者は誰でしたっけ」と聞かれた横溝は、言下に「佐野昌一だよ」と答えてしまった。ところが十三自身はこの作品で初めて「海野十三」という筆名を用いていたのである。このため、初出版では本文では「海野十三」、目次では「佐野昌一」と、書籍内で作者の名前が2つになってしまった。
もともと十三の勤め先は内職にうるさい役所ということで、そのための筆名だったという事情があった。横溝いわく、「私のミステークのためにその苦心も水の泡」というわけで「佐野昌一はけしからん」と役所ではかなり問題になったともいい、後には「相手が海野十三のような温厚な君子だったからよかったようなものの、そうでなかったら私は、こっぴどく怨まれたことだろう」とこの失敗を述懐している。もっとも佐野本人(海野本人?)は、昭和10年代にはそのような状況を楽しんでいたようだと、「名士訪問記 ――佐野昌一氏訪問記――」からはうかがえる。なお、佐野名義での電子工学関係の執筆物もいくつかある。
十三は昭和7、8年頃、麻雀の会を持っており、この会には十三のほかに大下宇陀児、延原謙、水谷準、乾信一郎、横溝らがいた。横溝によると、十三が『新青年』で売り出したのは横溝の他雑誌への転出後だったので、戦前はそれほど深い交わりもなく、「十三が温厚で誠実、思いやりの深い人柄と知っていても、それほど深いつきあいとしては発展していなかった」という。それにもかかわらず、1933年(昭和8年)に横溝が大喀血した際にはわざわざ見舞いに来てくれたという。恐縮した横溝はそのとき、十三に喀血の前歴があることを知ったという。
1946年(昭和21年)、岡山の片田舎に疎開したきりだった横溝は、ひとづてに所を聞いたからと十三から突然手紙をもらい、ここから両者に日文、夜文が始まった。両者は戦争のことには一切触れず、互いに労わり合っていたという。
1948年の春、横溝は息子が東京に進学したにもかかわらず、岡山に疎開したまま帰るに家なしで途方に暮れていたが、東京の学校に入った息子が十三のところへ挨拶に行ったところ、「お父さんに家を買うようすすめなさい」と、タンス貯金の何十万という札束を積んでくれた。まだ土地が安かった時代でもあり、この金のおかげで、横溝は成城に家を買うことができた。十三はその翌年に大喀血して急逝したが、多磨霊園の彼の墓には石碑もなく、横溝は「私に用立てる金はあっても、自分の石碑にまで手が回らなかったのだろう」と十三を偲んでいる。横溝はこれを後々まで恩に感じ、十三の遺児とも親しくしている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/海野十三

横溝正史の成城のお宅は、海野十三氏のおかげ

これで若い頃、疑問に思っていた、横溝正史氏が成城の広い土地に簡素な家を建てて住んでいた理由が分かりました。
1980年代に横溝正史邸は、成城1丁目にありました。
土地は広く雑木林の様な木々に囲まれた木造平屋建ての古びたお家。
それを取り囲む背の低い木の塀。
木の表札には『横溝」と書かれていました。
夜歩くと「何か出そう」な雰囲気😅

その奥のブロックには、白塗りの3mくらい高さがあるコンクリートに囲まれた3階建の大きなお屋敷、石原裕次郎邸がありました。

一時期、毎日のように横溝正史邸の前を歩いていましたが、一度もご本人にお目にかかることはなく。
友人のT君が夏休みに、お中元のアルバイトをしていて、横溝邸に荷物を届けた時、本人が印鑑を持って現れたそうです。

MOH:どんな感じの人だった?
友 人:ヨボヨボのおじいちゃん。
オイオイもう少し説明の仕方があるだろう?と、思いつつその場では、他の話題に移ったような…

Kindleで見つけました。
値段が値段なので読むかどうかはともかく、ポチりました😊

MOH

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