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夏の合宿所 【夏到来】

 今年の夏は暑い。
 東京で過ごす夏は初めなので、例年より暑いのか分からないが、ニュースで『近年稀に見る暑さ』と言っているからそうなのだろう。

 前期試験はレポート提出が多く、結果はともかく試験は終わり、入学してからほとんど通学しないまま大学は夏休み。
 大学生初めての夏休み。帰省も考えたが東京に出て来た時のトラウマで、同じ新幹線に乗るのには躊躇する。
 3月末、彼女と東京へ来る途中の異常事態は記憶に新しく、文字に書き起こそうとするとキーボードの指運びが停まってしまう。いずれ書ける日が来ると思う。

 8月に入ると彼女のアルバイト、ブライダルモデルのスケジュールは空いているらしい。夏のいシーズンは、いカップルもい婚礼カタログは見たくないだろうし、結婚にうるさい親からのが少ないのかもしれない。

「やっぱり5階にして正解。地表から離れれば熱い地面の輻射熱を浴びなくて済むし、上の階は風も入るから快適よ」
 暑くなってから彼女は、キッチンやバスルームを使う時以外、5階から降りてこない。5階は彼女以外誰もいないので、窓や扉を開け放して暑さを凌いでいる。

 今どき、エアコンも無いの? と驚かれるかも知れないが、この古い建物にエアコンは無い。正確に言うとオフィスビルだった頃のクーラーという遺構がある。叔父さんが住み始めてからクーラーが壊れ、業務用クーラーの修理費が高く放置しているらしい。
 彼女が電気店にエアコンの設置を頼もうとしたら、叔父さんから止められた。面倒で費用のかかる電気工事が必要とのこと。

 小説家になる勉強をする前に猛暑対策が必要な合宿所へ、高校生のユリさんは今日も顔を出している。授業があるときは週末限定研修生だが夏休みに入り、マメにここへ通っている。彼女とウマが合うのか、用事で下に降りてくるとき以外、5階の住民になっている。
 2人で小説を書き進めているのかも知れない。

 暑さに耐えられず、ボーッとしていると2階から叔父さんが降りてきた。最近は叔父さんもよく部屋にいる。「働き方改革で出版社にもテレワークがあるのだよ」と言っていたが、出版社は午後出社して朝帰りするイメージしかないのだけど。

 叔父さんは隣のソファにドサッと腰を下ろし、MacBookを開いている僕を見ながら聞いてきた。「執筆は進んでいるかい?」
 この暑さにダラけている姿を見れば分かると思うけど。
「言い訳はしたくないのですが暑いですから。Macのキーボードに汗が流れて壊れないか心配です」少し大袈裟に言ってみた。
「じゃあ、みんなで涼しいところへ行こうか」叔父さんが勿体ぶった言い方をする。
 そんなに簡単に涼しいところへ行けるの?

「今日、ユリちゃんも来てたよな。ちょっと2人を呼んでくれる?」
 うなずいてMacBookを閉じ、ソファから立ち上がり階段を登り始める。
 この暑さの中、5階まで上がるのは大変。背中に貼りついたTシャツが気持ち悪い。

 風がそよぐ5階では、リノリウムの廊下に2人ともペタッと脚を伸ばして座り、壁に持たれてガリガリ君ソーダ味をかじっていた。
「アレッ? そのアイスどこで買ってきたの?」
 僕の質問に2人は不思議な顔をする。
「どこって、近くの(近くはないけど)コンビニに決まっているでしょう。遠くから買って帰るとソーダ水になっているわ」
 コンビニで買ったのは分かるけど。
「ユリさんが買ってきたの? いや? ユリさんは午前中からココ(合宿所)にいるから、アイスを買ってきても溶けているはず」
 僕が疑問を呈すると、彼女が『アッ!分かった』という顔をして、手に持つガリガリ君をブンブン振る。ガリガリ君のしずくが隣に座っているユリさんのショートパンツ姿の脚にボタボタと落ち、彼女が慌ててハンドタオルで拭う。
「ごめんなさい。エムくんが変な質問をしてくるから。理由が分かったら嬉しくて」
 ユリさんの脚にガリガリ君のしずくが垂れたのは僕のせい?

「では、疑問を持つエムくんにお答えしましょう。私たちは21世紀に暮らし文明の利器があります。文明の利器があれば、暑い夏でも冷たいものが食べられます」彼女は得意そうに、極フツーのことを説明する。
 なるほど、僕が知らなかっただけか。
「冷蔵庫を買ったの? 運んだ覚えはないけど」
 冷蔵庫が届いたら、僕に「5階までよろしくね」の指令が飛ぶはず。

「エムくんが頑張ってもあれを運ぶのは大変よ。見てみる?(僕「見てみたい」)仕方ないなぁ。乙女の部屋には簡単に入れないのよ」
 扉が開けっぱなしの、乙女の部屋を見せてくれるようだ。

 彼女とユリさんは床から立ち上がり、彼女が「では、どうぞー」と手招きをする。考えてみれば彼女の部屋に入るのは、5月の真夜中に彼女に呼ばれたコウモリ騒ぎ以来。
 久しぶりに入る彼女の部屋は、以前入った時とは大違い。前回は真夜中の緊急事態で部屋をあまり見なかったが、ここまでモノは無かったはず。家電製品他いろいろ揃っている。
 中でも異質なのは、お店で見掛ける小ぶりな業務用冷蔵ケースが2つ。

「右が冷蔵で左が冷凍用。コンビニみたいに大きくはないけど、ジュースやアイスを冷やすならこれで十分よ」
 彼女が冷凍ケースのドアを開けて、ガリガリ君ソーダ味を渡してくれる。
「ありがとう。でもこんなもの、どうやって手に入れたの? 運ぶのも」
「ブライダルモデルのエージェンシーが事務所で不要になったものをもらったの。お願いしたら5階まで運んでくれたわ」
 なるほど、僕が大学に行った日に届けられたのかも。

 部屋には他にも珍しいもの(変なモノ)があり、ガリガリ君を齧りながら彼女の説明を聞いていると、階下から大声が聞こえてきた。
「ミイラ取りがミイラになったのかぁ!」
 そうだ! 叔父さんに彼女たちを連れてくるよう言われたのを忘れていた。
 でも叔父さんの例えは、おかしいと思う。
『ミイラ取とりがミイラになる』は『相手に働きかけようと出かけた者が、逆に相手に取り込まれてしまう例え』。神に誓って「僕が彼女に取り込まれてしまうことはない」と信じたい。神様を知らない葬式仏教徒だけど。

 彼女とユリさんを連れて急いでホールへ降りて行くと、叔父さんは立ったまま玄関横の窓から、夏の日差しがきつい外を見ながら電話をしている。
 僕たちは長ソファに並んで座り、叔父さんの電話が終わるのを待つと、しばらくして「うん、そういうこと。じゃあよろしくね」と通話を切り、長ソファの向かいにある1人掛けソファに腰を下ろした。
「研修生のみなさん(叔父さんから初めてそう呼ばれた気がする)暑い中、執筆活動お疲れさま。君たちの執筆が捗るよう、涼しいところを確保したから参加するように。明日の午後出発するからそれまでに泊まる準備をしておくこと。俺のクルマで行くから交通費は不要。行った先には一通りのものが揃っているから心配は無用。今日はこれから出掛けるのであとはよろしく」

 叔父さんはそれだけを言うと、アロハシャツに短パン姿、あとはいつもの鍔付き帽子にサングラスの出立ちのまま、玄関を出てクルマに乗り、どこかへ出かけてしまった。

(つづく)