習作④-3「或る文学少女」
がたんごとんと、世界が音を立てて揺れていた。繋がったまま走るいびつな箱の中には、信じられないくらいたくさんの人間がびっしりと詰め込まれていて、箱が揺れるたびに僕は知らない人間とぶつかってしまう。優しい人は、ごめんなさい、と言ってくれるし、僕も会釈くらいは返せるけど、酷い人は舌打ちしてくる。
なかなか不愉快な乗り物だと思う。
時刻は午前10時過ぎ。
僕は隣市にある駅前の大きな本屋さんに行くため、電車に揺られていた。今日は休日だ。どこから湧いてきたんだと思うくらい多くの人間が同じ電車に乗っている。休日くらい家にいればいいのに。
なかなか理不尽な理由で僕がむくれていると、目の前の座席にぽやぽやした顔で座っている月さんが、僕のパーカーの袖を引っ張った。
「超絶機嫌悪いじゃん、平気?」
枕みたいな柔らかい声がそっと聞いてきた。
「だって、こんなに人がいるとは思わなかったんだもの、具合は大丈夫だよ」
「だったら平日に来ればよかったじゃない」
月さんが首をかしげると、薄茶色の前髪が目にかかる。車窓からさっと入る光が絶妙に陰影を作り出して芸術的に彼の容貌を彩った。
僕の斜め後ろに立っている女の子たちがこっちをちらちら見ながら何か話していた。
流石にジャージではないけれど、ラフな服装にスマホと財布だけ掴んで家から出てきたような格好をしていたって、月さんは人目をひくのだ。この人の芸術的な綺麗さは、昼でも損なわれることはないんだなと僕は大変感心した。
「だめだよ、平日は月さん仕事あるじゃん」
「別にいいよ、みーくんが行きたいならいつでも行くよ」
「だめだって、そもそも1人で電車に乗れない僕のわがままだし……」
そして月さんの顔から少し視線をずらす。景色が車窓を走り抜ける。
僕は1人で電車に乗ることができない。前に1人で乗ってパニック発作を起こしてしまって、誰か一緒でないと乗れなくなってしまった。気が遠くなって目眩がする感覚を、僕は必死で記憶から追いやった。
普段なら家の近くの本屋で事足りるのだけど、こないだ出たばかりの推し作家の新刊が信じられない勢いで売れてしまい、予約もかなり待つということで、大きな本屋に行くことにしたのだった。
日が出ているうちに外に出かけなければいけないことと、電車に乗らなければいけないことは、僕にとってエベレスト級に難易度の高いミッションである。どうしたものかと悩んで月さんに相談してみたら、一緒に行くと申し出てくれたので、こういう状況になっているわけだ。
月さんは眠気に耐えかねたのか、着いたら起こしてと告げて、そのまま寝落ちてしまった。
後ろを見やると、女の子たちがスマホを構えてざわざわしているので、僕は自分がかぶっていたキャップを取って月さんの頭に乗せた。
月さんは仕事柄、女の子にサービスすることに慣れているけれど、別に仕事じゃないところでまで自分を晒す必要はない。
そんな謎の使命感に駆られて勝手に満足した僕は、片耳だけ外していたイヤホンを再びつけなおした。
外の世界は音が多すぎる。光も色も。
夜の静かな世界で生きる僕には、どうしたって息苦しい。帽子で光を遮って、耳を塞がないと、日中はうまく外を歩けない。
どの作曲家の何番なのかとか詳しいことは忘れたけど、たぶん有名なピアノ協奏曲を延々と聴いていると、電車が止まって、僕の斜め前にあるドアが開いた。人が出たり入ったりせわしなく動く様をぼんやり眺めていると、制服を着た少女がやってきた。人の波に押されたり揉まれたりして、なんとか体を空いているスペースに滑らせてきたという感じだった。僕は少し体をずらして、彼女にぶつからないようにした。
少女は入口の方を向いて、僕に背を向けて立っていた。
線の細い体が着ているシャツは、きちんとアイロンがかかっていて、しわひとつなくきれいな白が広がっている。
履いているプリーツスカートは膝より長く、折り目は後ろ側だけぐちゃぐちゃしている。たぶん、椅子に座る時間が長い人なのかな、と、想像する。僕と同じ種類の人間なのかもしれないと本能的に察知して、それだけで彼女のことを好ましく思えた。スカートの柄は知らないものだったので、僕の知らない高校の制服だろう。この街にあるかもわからない。
シンプルなデザインの腕時計が手首につけられているのが見えた。右手首に腕時計しているので、左利きなのかもしれない。
全く染められた気配のない黒い髪には癖がたくさんついていた。うなじにかかるくらいの長さはある。たぶん、起きたままだ。それか、癖っ毛なのかもしれない。
眼鏡をかけているかどうかは後ろ姿からではわからなかった。
そして、彼女は字が細かく古そうな色をした本を熱心に読んでいた。何が書いてあるのかは流石にわからなかった。
立ったまま、鞄は足の間に挟んで邪魔にならないように。姿勢はきちんとしていた。
僕は少し、どきどきした。彼女と仲良くなれたらいいのにと、夢のようにいろんなことを想像した。
教室の端っこの席で、周りに目もくれずに本を読む彼女。「なに読んでるの?」と声をかけると、彼女はびっくりして、それからたどたどしい言葉遣いでその本のことをたくさん教えてくれる。にこにこして聞いていれば、彼女もだんだん顔を上げて話してくれるようになる。
夢みたいだ。夢みたいな妄想。
そこで僕は、先程から1人の女の子をガン見してしまっていることに気づいて慌てて視線を逸らした。
自分の気持ち悪さに自分でドン引きする。
虚しい妄想を引き剥がして、音楽に集中しようとした。
「あっ…ごめんなさい」
ちょうど曲が終わったところで、女の子の細い声が、イヤホン越しに僕の耳に届いた。
視線を向けると、派手目な女子高生の集団が急に動いたらしく、近くにいた彼女がその勢いにふらついて本を取り落としてしまったようだった。本はこちら側に落ちてきた。
慌てた様子で彼女がこちらを振り向いたのと同時に、僕はその本を拾い上げた。
サン=テグジュペリの『人間の土地』。
タイトルを見た瞬間、僕は少し緊張する。
僕はそのまま立ち上がって、彼女に本を差し出した。
「どうぞ」
彼女は僕より少し背が低く、色白で、眼鏡をかけていた。おどおどと僕から目を逸らしながら本を受け取る。
「す、すみません……」
顔が赤くなっているのを見て、僕は少しだけ気持ちが大きくなるのを感じた。
「その本、いいですよね」
「えっ」
彼女は大事そうに本が痛んでいないか確認している途中で、びくりと肩を震わせ、それから僕の顔をじっと見てきた。
僕はイヤホンを片方外して、体の前で謎に手を振り動かした。
「あっ突然ごめんなさい、僕、その本が好きなので」
彼女も好きかどうかはわからなかったので、僕も、とは言わなかった。
彼女は怯えた様子を見せながらも、確かに目を輝かせた。表情の変化が、好きなものに反応を見せる時の人間の顔で、とても好ましかった。
「わ、私も…!」
声の弾み方から彼女がこの本を好きなことがわかって、僕は笑った。
「冒頭の文が、とてもいいですよね、『ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える』」
「わかります、発想が、空から世界を見ている人じゃないと出てこないなって思って……!」
彼女は必死で言葉を連ねた。好きなものに対する気持ちを表現することはいつだってとても愛おしい。
「私、星の王子さまが好きで、あとがきにこの本のことが書いてあったので、読んでみてるんです」
少し頬を紅潮させたまま、彼女は話す。
「サン=テグジュペリは、やっぱり本物の飛行士なんだなって、空を心から望んでいた人なんだなってわかって、とっても感動したんです」
僕は相槌を打って、記憶を探った。星の王子さまは未読だった。
「星の王子さまって、どんな話なんですか?」
「読んだことないんですか?!」
「はい、お恥ずかしながら」
僕は未読の恥ずかしさを紛らわせるために父の話し方を真似して大人ぶった。
「絶対、絶対読んでください、人間の土地が好きなら、きっと好きになれます」
彼女は僕のささやかな葛藤に気づかずに熱っぽく好きな作品について語ってくれた。
ちょうどいいタイミングで次の駅の停車予告が放送で流れて、彼女は僕に頭を下げた。
「いきなりいっぱい話しちゃってすいませんでした…」
まだ顔が赤い。
「いえいえ、話しかけたのは僕の方ですから」
「お兄さん、あの、ぜひ、読んでみてくださいね」
僕はその呼称にかなり、心を打たれた。
顔に出る前に慌てて笑顔を繕って、彼女に挨拶を返す。
「はい、きっと読みます」
「それじゃ、私ここで降りるので…!」
彼女は会釈をしつつ嬉しそうに電車を降りていった。
星の王子さまか、タイトルだけ知ってるけど、読んだことがない。100冊マラソンをしてた時もリストには入れなかった。ビッグタイトル過ぎて避けた記憶がある。
僕はイヤホンをつけ直して、楽しかった会話を反芻した。
反芻しながらも、なによりも、年上の男だと思われたのが嬉しかった。
僕のような半端者でも、まともに見てくれる人がいる。
機嫌の良さが顔に出ていたらしい。
くいくいと、服の裾を引っ張られた。
「あれ、起きたの」
「うーん……」
月さんはさっきよりさらにぼんやりした目で僕を見上げた。キャップがずり落ちている様が面白かった。
「なんか、今度はすごく機嫌がよさそうだね」
「うん、ちょっとね」
少し恥ずかしくなって視線を逸らした僕を見てから月さんはこてんと首を傾げて、それから少しだけ優しい顔をした。
僕はスマホを取り出してスクショしてあったwebページを開いた。
「『橋本瑠衣、3年ぶりに新刊発売』前作では今までの作品から大きく作風を変えたことで話題になった人気作家、橋本瑠衣の新刊『幽栖の夢』が〇〇日、発売された……」
本日の僕のお目当てはこれだ。橋本瑠衣先生の新刊。3年ぶりに出るということで僕は非常にわくわしていた。橋本先生の作品は去年初めて読んだけれど、どことなく仄暗い、けれど温もりがある作風をとても気に入った。映像化された作品もある。ここにある通り、確かに前作は少し文体が柔らかくなっていて、橋本先生が頻繁にテーマとして掲げていた孤独や厭世的な感情からは少し違う方向の作風だったけれど、僕は前作もとても好きだ。新刊はどんな話なんだろう、新しい本を買いに行くときは、いつだってとても、うれしいものだ。
車窓を走り抜ける景色の中に、徐々に背の高い建物が増えてきた。もうすぐ目的地だ。
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