「春と修羅:序」孤独を抱えて生きること

なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ  

宮沢賢治の詩集、『春と修羅』に記された詩の一節です。
孤独を抱えて生きていくことを肯定する彼の在り方に、強く心を打たれます。  

ひとりっ子で病気をしがちだった自分は、昔から、1人で過ごす時間が圧倒的に長い人間でした。
実家で暮らしていた頃はそこまでではなかったのですが、家を出た1年目は、耐えがたい孤独に襲われることがよくありました。見知らぬ土地で1人で生きていける気がしなくて、自宅に帰らずに友人の家を転々としていた時期もありました。夜になると、椅子に座ってイヤホンをつけたまま、朝が来るまでぼーっとして起きていることもありました。
今思えば、当時の自分は、孤独という感情を心の中に持つべきではないと、考えていたのだと思います。
わたしにとって孤独とは、心の貧しさの象徴でした。
誰かと一緒にいる時は、寂しさが解消されて、とても幸せな気持ちになりました。自分はまだ決して、暗い海に1人放り出されたわけではないとわかって、安心しました。  

けれども勉強が進むにつれて、自分の中にある否定的な感情は、本当に否定的な感情なのか、と考えるようになりました。心理学的に言ってしまえば、ネガティブ感情とはストレスコーピングや防衛機制の手段であることが多く、ある意味、人という生き物としてのプログラム的な意味合いを持ちます。
そのこともあって、自分の中に生まれる感情をじっくりと省みることが多くなりました。  

物語との出会いや友人たちとの多くのやりとりを経て、わたしは、孤独は人生において必要な感情だと考えるようになりました。
孤独は悲しく、痛くて、つめたくて、わたしの中では相変わらず、ネガティブなものとして定義される言葉ですが、それでも心にとって必要な要素なのだと思うのです。  

例えば、自分の言葉が届かなくて、いつまでも1人で夜に泣いていたことがあったとして、その経験は、いつか、誰かのそばにいることの価値を増してくれるのだと思います。
孤独を知るひとは、同時に、他者の暖かさを感じ取りやすいのではないかなと思うのです。  

また、自分を省みる時、人は孤独です。俯瞰して自分を見つめることで、多くの大切なことを見つけます。そこで見つけた多くのものが、自分を生かしてくれる瞬間もあります。1人の夜に出会った言葉や音楽に、心を救われる瞬間もあるでしょう。  

賢治の言う「透明な軌道」とは、こういうことを言うのかなと思ったり。
孤独に心を奪われて、悲しみで世界が色褪せて見えそうなとき、それでも孤独を持ったまま生きると決意するとき、人は本当に1人の人間として自立できるのかもしれません。  

自分は未熟者なのでまだまだわからないことばかりですが、自分なりに、孤独と仲良くして生きていきたいなあと思います。  

久しぶりにエッセイのようなものを書きました。拙い文章をここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

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