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ペテン師とドーナツ



ペテンという言葉は、人をだます意の「騙(へん)」を中国語風に発音した和製中国語だと言う。中国への留学がファッキンコロナのせいで消えてエセ中国語学習者に成り果てた私が使うには相応しいような。なんだかピッタリであるように感じてから、この言葉でよく自分自身を形容するようになった。

このまま消えてしまおうかと言う鬱に殺され慣れた2連休目の夕方。逃げるように飛び乗った喧騒Aから喧騒Bに移るだけの高速バスが、事故渋滞で全く進まない。内線によると大幅な遅れだそうだ。動いていないくせに予定時刻からは刻一刻と離れて行く。進まない、進まないと余計なことばかりを考えてしまうものだ。考える暇もないぐらい動いていたい私を、どうにかして引き止めて悩ませたい世界だ。

私が自分のことを「ペテン師」であるとする理由は、会話の誘導と三人称視点からの自分自身の印象操作が心底、巧みなところにある。上手く事が進む、気持ち悪いくらいに。ただ、自分を偽っているかと言われると、それは少し違う。と思う。私には元々腹のうちに抱えたグラデーションのような多面性があり、その中から期待されている物を優先して表に出すのである。

気づけば、窓を流れる都会が青い。長旅のお陰でやっとのやっと村上春樹のダンス・ダンス・ダンスを読み終わった私は、無性にドーナツが食べたくなっていた。すっかり日は暮れてしまっていて、人間に灯された情報の押し売りを始めている。目につく看板は目につくように、記憶に残るネーミングはそうなるように考え尽くされたもの達である。横の車を見下ろすと、サラリーマンがしきりにApplewatchを確認している。動いていないのに、どんどん離れていくのだ。

具体例をあげるならば、何かを相談された時。相手が私に何を求めているのかを無意識に探る。どんな私を期待されているかを嗅ぎとる。傷心を共感してほしいのか、労ってほしいのか、あるいは具体的な解決策を求めているのかを考える。言葉にならない感情を言葉にしてあげるだけで済む時もあれば、ある程度奇を衒う必要がある時もある。謙虚と自信のバランスも考えるべきだし、感情論抜きに理屈で整理してあげるのが最善であることもある。そういうことを考えた上で私を相手が求めている形にねじ曲げて差し上げる。一から作り上げる訳ではないが、それは確かに歪んでいるのである。

「私は正直者である」と言う便利なキャラ付けをしながら、人一倍気を遣う。愛されたいと強く思いながら、私の全てを理解されてたまるかと思ってしまう節がある。私は嘘つきではないが、嘘つきは自分のことを正直だと言っても嘘つきだと言っても、間違いではないのだ。

二十面相だとか多重人格だとか、期待されている私を演じる必要のない人の前でコロコロ変わる私は頻繁にそう呼ばれてきた。冷静になればなんちゅう言われようだろうか。「猫の目」とか「秋の空」とか比較的素敵な表現には相応しくないのか、はたまた、ただ単に私にそのようなレッテルを貼る人間に容赦とも呼べる教養や情緒がないのかは分からない。しかし、確かに自分でもこの特性はどうしても素敵なものだとは思えないのだ。

こんなことを考え始める時は決まって、疲れ果てている時だ。精神的に疲弊して泣きじゃくる一秒前の喉の締まりが、一週間続いている。そんな時は私の多面性を誉めながらも元カノが持っていたような俗に言う女の子らしさを私にも求めている彼に会いに行く。私にそれが見出せるのはきっと、私が精神的に弱っている、ないしは嫌でも体の性を自覚するような行為中なのだろう。だから夜なのだ。だから夜だったのだ。


檸檬堂の漬物、マルボロメンソールの燻製。これは幸せではないがまるでそのような時間だった。内蔵をえぐられる感触が残る。外は私の代わりに豪雨、こんなペテン師を必要とする仕事に首根っこ捕まれている。また、動いてないのにどんどん離れていく。引きずり戻されているという感覚を放棄するべく、バスは一番前に座る。まるで凱旋なのだと言う顔をして。



人によってはこれを「賢さ」や「共感力」だと言う。確かに私のペテンは私が巧みに生きていく術であり、甚だしく役に立っている。気を抜かなければ人に嫌われないし、狙い撃てば深く気に入られる。それに、人望はお金になる。人より仕事を頼まれれば、その分評価に繋がる。ただ、この「上手くいくこと」がこの上なく気持ち悪い。苦虫を噛み潰しておいてそのような顔はせず、苦いなあと思いながら生きている。

こうやってぐらぐら、ぐらぐらするのだ。小賢しさが実際に愛にも金にもなって返ってくることによる自惚れとその気持ち悪さに。私は私を上手く使って生き残っている。ちっこい私をもっとちっこい私が操縦してるみたいな感覚で生きている。ある程度意思のあるぼんやりした宿主に、もっと知的好奇心旺盛で感情的、ないしは姑息で便宜的で合理主義の寄生者が。



ふと顔を上げる。雨雲を追い越したことにも気づかず怒涛のように文を打っていた。空が私の代わりに泣き止んだ。ああ、でももう少しすれば、また雨が降る気がする。なんだか、文は私なりの癇癪なのかもしれない。程なく最寄りのバス停、あと4時間後には出勤、心にはぽっかり穴が空いている。そういえば、ドーナツが食べたかったんだった。今、ドーナツを食べたいという気持ちを無視することは、自分自身に対して自分を偽ることを意味する。つまりはアイデンティティの崩壊なのだ。即ち、ドーナツを食べないと私は死んでしまうのだ。


なんてね。少し、馬鹿馬鹿しくなってくる。これからもこうやってぐるぐるしながら何とか生き残って行くんだろう。ミスドに寄って、ポン・デ・リングを噛み締めよう。自分自身にだけは、ペテンを働かないように。

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