私がエジプトに渡ることになった経緯

2018年2月某日

【経緯】
発端は、昨年2月に私がエジプト国立民俗伝承舞踊団「エル タンヌーラ」の入団試験に合格したことです。


【余談】
2000年の初渡航時に大衝撃を受けて以来、私はすっかりこの舞踊団のファン世界第1位になってしまいました。巨大なスカートをぐるぐる回す演技から「タンヌーラ」とか、演奏される音楽のジャンルが、ムシーカ スーフェイヤ(神や預言者に関する音楽、キリスト教でいう賛美歌やゴスペルにあたる)であることから「スーフィー」と呼ばれるこのトゥループは、私が思うに世界最高の男気エンターテイメントであります。演奏も踊りも超絶テクニックもほどよいゆるさもナンバルワン。週3でほぼ同じ演目をやってるのに、演者が毎回替わるので何度見ても私は全く飽きません。ほんと「シャーベイヤ(下町)の粋」「エジプトの良心」「ムスリムの誇り」とか見るたびに思います。
いま日本に住んでるダルヴィッシュ(旋舞手)のサイードとか、地主大介の師匠で何故かオーストラリアのパースに移住した超絶タブラのハサン ヨーセフとか、亡くなったけど、踊って叩いて美しい「いぶし銀ゲミールじいさん」故アハマド ハラワーニ(彼に平安あれ)とか、白眼をむいてズィクルを叩く「黒い大砲」故ホセーン アスマル(彼に平安あれ)とか、団からいなくなっても私にとっては大スター。もちろん現団員たちも私にとっては、憧れのアイドルです。
私がやってるタブクワイエサもこの団の演目「スーフィー イスタアラディー(スーフィーのエンターテイメント)」の部分のコピーバンドです。知ってましたか?
これで、志望動機がおわかりいただけたでしょう。
試験は2回目(実質1回目)で合格しました。
当日、芸術監督マフムード イーサ氏、我が師匠で団の長老アーデル ヨーセフ氏はじめ一部団員たちの立会いの元、30分弱、言われるがままサガットと踊りを披露して、すんなり合格いただきました。アーデル師に合格と言われた瞬間は、嬉しくて震えましたよ。
初回は、というか実際に試験はやっていないのですが、おととしの11月に一度、チャンスがありまして、突然の、まさかの試験決行通告に張り切り過ぎた私は、会場に早く来すぎてしまい、それが災いし、ある不注意が師匠の逆鱗に触れてしまい、試験を受ける前に不合格を宣告されるという、悲しくもおもしろい事件があったのでした。
この内容についてもっと詳しく知りたい方は、常設の公演会場であるアズハルのウィカーリット ゴーリーにタンヌーラを10回見に来たら教えてあげます。


【経緯つづき】
合格の喜びも束の間、監督マフムード氏より「前例がないので、私の一存であなたを採用することはできない。自分で道を見つけて文化大臣の許可をもらって来てくれ。」と言われました。さすがに国立舞踊団、外国人を採用するにはそれなりの許可が要ります。
帰国して一年、日本にいては何の方策もなく、とりあえず文化大臣宛に手紙をしたため、なんかできるだろうと、今年の2月〜4月、カイロに滞在いたしました。


【余談2】
やはり住んでみなければ何も進まんだろ、ということで、滞在中は普通に生活しながら、役所関係のシステム研究、スーフィー以外の演奏の仕事探しを主にやりました。
まずは誰かに尋ねるのが一番。会った人全員に聞きまくる。道端のおっさんでもいい。相手の住所から始まって、周辺情報、家賃とその相場、間取り、何階建ての何階?とか、こと細かく。さらに職業演奏家には給料や待遇を尋ねまくるのですが、アルハムドリッラー、全員が快く答えてくれ、最後には必ず「部屋は探すから、うちの近くに住め」と言ってくれます。
結果、意外と細かい行政区分や住民登録制度があることを知り、いままで使う機会のなかった、区、システム、日当、許可証、契約、エレベーター、づら、とか単語覚えたわー。カイロ以外の地方の言葉とか、若造どもの作り出す新しい言い回しとか、やっぱりベドウィンの人はフスハーっぽく喋るなあとか、情報収集ついでに言葉の勉強にもなりました。


【経緯続き】
第一志望のタンヌーラ舞踊団に関しましては、事務的なことは何も進まず。文化大臣閣下には私の願いは未だ届いておりません。
ただ、私の事情を知る全員が、こっちで演奏の仕事をしながらそこ目指せばいいやん、と打ち合わせしたかのように言います。
またおかげさまでミュージシャンとして3件のオファーをいただき、労働許可証を取得の見込みとなりましたので、カイロで演奏の仕事をしながら、第一志望を目指すことにしました。
もちろん、ご希望の方には自宅スタジオにて今まで通り、タブラ講師もいたします。
カイロにてタブラレッスンをご希望の際は、気軽にお申し出ください。また、エジプト人音楽講師の紹介もいたします。タブラだけでなくカマンガ、カヌーン、ナーイ、カワラ等、どんな楽器の奏者も取り揃えております。


【余談】
事務的には進展無しでしたが、タンヌーラの会場、ウィカーリット ゴーリーでは準団員(研修生のような)待遇になりました。
団員、文化省の事務スタッフたちは、合格から一年経っても私を入団予定者として扱ってくれています。月水土の夕方、会場近くのカフェに集まり、会場入りし、マグレブを祈り、楽屋にも入れ、練習にも参加できます。ファンとしては大きな前進ですが、ステージ人としてはぜんぜんダメやんとも言えます。
民間バンドのミュージシャンの労働許可については、日本同様、お店や会社からのリクエストがあればいただけるようです。
私の場合、4月時点でオファーはありましたが、ずいぶん時間も経っています。行ってみたら、前の話なんてもう無いかもしれない。しかしカイロは少なく見積もっても毎晩3000ヶ所以上でライブをやってるエンターテイメントのモンスターシティー。もしひとつでも仕事が決まれば、日々オールナイトでライブ三昧の、幸せ地獄みたいなことになるはずです。毎日毎日同じことをやって、きっと歌もたくさん憶えられると思います。
とりあえずは、たぶん日本人初だろうという栄誉を胸に、渋すぎる新人はカイロの何処ぞのステージに上がってきます。全てはインシャアッラー、神の御意志ではありますが。
というわけで、活動の拠点を世界有数のノリノリ都市、カイロに移させていただきます。みなさまにはこれまでと全く変わらぬ応援をいただけますよう、心からお願いし、ご挨拶と代えさせていただきます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?