普通にモテるまでのノウハウ(殴り書き)-接し方


接し方については同じようなことの繰り返しになるので所々省略させてもらうが、距離を第一に意識する。

あとは真摯であれということ。

茶化しや冗談は人としてのセンスが如実にあらわれる。

人間性や人格などの一端が垣間見えることによって、信頼関係の築けていない間柄にあってはあらぬ誤解を生みかねない。

「こういう人だから」と言って許されるのは信頼という土台があってのこと。

印象が悪くなれば二度目に会えるチャンスは永遠にやってこない。

接し方に属した話かどうかはさておいて、人はコンプレックスがあってよいと思う。

コンプレックスがあるからこそ謙虚になれるし、相手を思いやれる優しさを持つことができる。

もちろんそのコンプレックスが努力するきっかけとして働き、社会的に成功した偉人も枚挙にいとまがない。

コンプレックスを抱えて生きるのは大変だ。

嫌が応にも自身に突き付けられ、常に頭の隅に燻っている。

これを取り除けるに越したことはない。

それがお金で解決できることなら解決すればよいと思う。

しかし、根本的な解決には至らないケースがほとんどではないだろうか。

一つ解決すれば、またコンプレックスが一つ芽生え、何度やっても同じことを繰り返してしまうのではないかと思う。

かく言う私も立派なコンプレックスの塊だ。

過去に何にも誇れるものはないし、自慢できることはない。

自身のコンプレックスをどうするか、日々悩み考え解決することはない。

まったくもってそんなことを感じさせない友人もいるのだが、彼も彼なりにコンプレックスとは言わないまでも悩みがあるのは知っている。

人間、大なり小なり苦悩を抱えて生きるのだ。

人は何かしらを抱えて生きているのをわかって接することと、相手の中に羨望という作りこまれた幻想を見ながら接することでは、相手の心に残す印象が全く違ってくる。

話の内容も、相手から感じ取れるぬくもりも、心に響かなければ違ったものとして記憶につくられる。

このことが人と接することにおいて非常に重要なポイントの一つとなる。

もう一つ重要だと思うことは、相手が赤ん坊から育ってきた人間であることを想像できるかだと思う。

生きるもの全てが成人として生まれ、初めから何もかもうまくいくように生きてきてはいない。

誰もが誰かに守ってもらい、失敗と経験を繰り返して徐々に徐々に何とかかんとか生きてきている人が大多数ではないだろうか。

中には天才がいて、うまい事世を渡っている人もいるだろうが少なくとも私の周りでは見たことがない。

そういった意味において、相手もまた不完全な個体であり、赤ちゃんの延長線上に生きている人という認識が必要だろう。

自分ができることを相手に求めるのは非常に傲慢なことだと思う。

そういう考えのひとはどこかで行き詰ってしまうだろうし、運よく人の優しさに救われたのであるならば涙して改心することと思う。

それくらい人は不完全な個体だ。

そのことを強く認識すれば、自然と感謝と助け合いの精神が育ってくるものだと信じている。

謙虚に生きなくてはいけない。そう人に言うのは簡単なことで、憚らずに堂々と言葉に出してくることもどこか高慢な影を感じさせる意味のように思う。

謙虚とか真摯とか、その人の解釈によって違ってくるもの。

やたらとマウントをとってくる人がいたが、その人の自己評価が「持ち前の謙虚さで…」みたいなことを書き出していたことがあった。

謙虚を誤認しているのか、疑いなくそう思っているのか。

自己評価ほど当てにならないものはないと強く感じた瞬間だった。

ちなみに自称謙虚当人への評判はほとんど「彼が謙虚?」といったものばかりだった。

「自分は謙虚である」という自負か、「謙虚であろう」とする姿勢なのか、どちらが自身にとってプラスになるのかは考える余地があってもよいと思う。

ただし自負というものは時に足かせというか、プライドとして自分を縛ってしまうものになり得る危うい自認だと思う。

自負は「~だから」という気負いが「~しなければ」という縛りになりかねない。

方向が違えば、例えば「優しさ」なんかが自負だったとしてもその優しさが相手に対してなのか自分に対してなのかが変わってくるのと同じで、自分に都合よく解せばストレスなく過ごせる手段にもなる。

ものは考えようだが、それくらいゆとりをもって生きるのも悪くない。

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