ゆめゆめお忘れなきように

わたしは生きることに対してやる気がなかった。それが、神さまに咎められたのかもしれない。
まあ、神さまをそもそも信じてはいないのだけど。
 
 
小学校3年生のとき、離婚した母の父、わたしにとっての祖父が死んだ。触れてあげて、と言ったおばあちゃんの言葉を、わたしは叶えてあげることができなかった。記憶にある限り、数回しか会ったことがないその人は、もとからそんなに親しみを抱いていたわけではなかったうえに、そこにある精気の抜けた体を祖父と呼ぶにはあまりに違和感があった。
 
高校2年生のとき、学友が自殺した。祖父よりも、ずっと、近しい存在だった。が、失って初めて、彼女のことが全く分からなくなった。異質に思えた。人は生まれ、食べ、寝て、目の前にあるちいさな選択をただただ重ねていけば、なんとなく年をとって、あの、年老いた人のようにいつか息を引き取るのだ。多少道は違えど、行き着く先は変わらない。それなのに、どうしてわざわざそのような大きな方向転換をする必要があったのか。

ああ、行き着く先が同じなら、道を歩むのも無意味でしょう、というもの分かる。
 
彼女の時間は止まったまま、わたしは鈍い思考を重ねたまま、決まって365日ののちに、年をとり、大学生になり、大学生らしいことをし、就職をし、会社員らしいことをした。もうあとは、大した選択はないだろう。休日に何をするとか、今日のごはんは何にするとか、音楽は何を聞くとか、そういう小さな物事を決めていけば、その過程に恋人ができたり結婚したり子を産んだりというイベントはおのずと起きるはずだ。わたしはただ、自分がそれと向き合って決断したという顔をしておけばいい。行き着く先はどうせ変わりはしないのだから。
 

果敢に生と対峙した彼女に失礼ではないか。精一杯、生を全うした彼に失礼ではないか。
そんなことを考え非難する人間がいるかもしれないが、その考えすら、結局単なる暇つぶしなんでしょう。暇つぶしに構っているほど暇ではない、と、いうふうに装うことにわたしはきっと忙しいのだ。
 
 
「■■さんって、すこしミステリアスな雰囲気があるよね」

当たり障りのない態度であることを、たびたびそう評されることがあった。曖昧に微笑むと、そいつらはますます喜ぶ。なにか自分にしか見えないものを人は常に欲しているから、多くを語ろうとしないわたしは格好の餌食なのだろう。
 
「今度、ゆっくり話したいな。ふたりで」
「なにも、面白い話なんかできませんよ」
「いいんだ、■■さんと一緒に過ごせたら。ねえ、明日、仕事おわったらさ、食事に行こうよ」
 
素直に感じのいい人だな、と思った。微笑んで返すと、その人は、それを了承の意ととったようで、「じゃあ、明日、仕事が終わったら西口で待ち合わせしよう。お店はぼくが決めておくから」と言って颯爽と去っていった。本当に面白い話なんかないので、きっと、あの人は明日の夜21時にはおとなしく自分の部屋に帰るに違いない。そうしてこの先、わたしたちが事務的なやりとり以外を交わすこともなくなるのだろう。惜しいとは思わない。が、空しいとは思う。
 
いつも提示にタイムカードを刻印して、ビルを出る。これから自分たちの自由な時間を謳歌しようとするサラリーマンでひしめく駅を通り、電車で人に揉まれ、下車する人がまばらな駅で降りた。冷蔵庫の中にあった食材たちを思い出して、スーパーを通り過ぎる。ちいさなアパートの2階、面白みのない部屋がわたしの住処。スーツのまま、ベッドにうつ伏せで倒れた。わたしを食事に誘った彼の名前すら、霧の向こうにあるように不明瞭だ。わたしは生きることにやる気がない。だから自分の輪郭も、他人とのつながりも、希薄で、強くこすれば溶けてなくなってしまいそうだ。それを望んでいるような気さえするが、自分でそれをすることは億劫という我儘でもある。世の中には頑張って、精一杯で、一生懸命で、必死で、やる気に満ち溢れた人がいるのだろう。そんな人間と、自分が同じとは到底思えなかった。ただ、生をつなぐだけで、わたしにはそれ以外のことをする意思も余白もなかった。大したことない人生だ、なのにどうしてか疲れる。でも動かなきゃ。一度止まってしまうときっともう二度と動けない。そうすると当然用意されている行先まで行けぬのだ。それは困る。わたしには人生の結論が必要なのだから。
 
そこへ行くために、スーツを脱いでしわにならないようにハンガーにかけ、冷蔵庫の余り物で夕食を作って食べ、風呂に入り体を洗い、テレビで世の中の出来事を知って、きちんと眠らなければならない。そうすれば、それをつづけていれば、ちゃんと結末はやってくるはずだから。ずっとそのために、生をつなげてきたのだから。今日も、平凡な1日だった。歴史に埃さえ残さぬような透明な日だった。なのに、体がやけに重く、鉛のようにマットレスに沈んでいる。あと5分。あと5分だけこのままでいたら、すぐにやるべきことを果たそう。いつものようにやるだけだ、簡単だ、あとすこし横になったらーーーーー。
 
 
生きることを舐めていた。死ぬことも舐めていた。
だから罰があたったのだろう、生きることも死ぬことも許されなくなってしまった。
 
 
 
目を覚ました。
知らない場所に、放り出されていた。
 
 
 
「………」

大学の卒業旅行で、友人に誘われて行った沖縄の海を思い出した。掌に纏わりつく細かな砂。ベージュと透明の間のそれは、ひかりをいっぱいに含んできらきらと輝いている。ひかり。頭上には燦燦と太陽が輝き、雲ひとつない。遮るビルも、何もない。ただずっと先のほうから、なだらかな山が続いていた。体を起こした。右手に山、左手に海。塩の香が呼吸するたびに体に吸い込まれる。なんの変哲もないあのちいさなワンルームはどこへ消えたのだろう。どうしてこんなに深く眠ってしまったのだろう。ただ、不気味なほどに頭は冴えていた。まるで夢ではないように。
 
「おとなしくしなさい!」
 
急に怒鳴られて、体が大きくはねた。180度あたりを見回す。が、人影が見えない。幻聴?何度も首を回して確かめるが、声を発したらしい人物は現れない。ふっ、と、急に自分の体が陰った。上を向く。太陽を遮るように、水色の豊かな髪の人間ーーーーだろう、空を跳んでいるから、本当に人間かは分からないけど、形はそれだ。----がいた。逆光で、顔は見えない。
 
「あの……」
「あなた……迷子かしら。眠りなさい」
 
ぐっとその人間が急降下してきたかと思うと、わたしの意識はばちんと飛んだ。
 
 

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