性獣説

『性獣』と書くとやにわに穏やかではない字面だが、ここでは『性善説』や『性悪説』の別種だと思って聞いて欲しい。

そもそも性善説と性悪説についてはよく知られているから解説を必要もしないと思うが、そのような一元論あるいは二元論だけで人間を評価、分析することは困難である。

と言いつつも、会社の同僚から「あなたは性善説と性悪説のいずれが正しいと考えますか?」と質問されたからには、この問答について考えざるを得ない。

意地悪をしているつもりはないのだが、私の答えは「そのどちらでもない」となる。

私は、「人とは生来、他の動物たちと変わらない」と考えている。故の性獣説である。

私には、人間だけを何か他の生き物たちと違う高尚な存在だとはどうにも考えられない。あるいは思いたくないという気分もある。霊長類などと言うと字面がなんだか偉そうではあるが全くそんなことはない。

確かに道具を発明したり、それを応用したり、言語で様々なコミュニケーションを取る様子は他の生き物たちのレベルとはまったく次元が異なる。チンパンジーやオラウータンたちの学習能力や識別能力の高さにもなかなかの凄みがあるが、それは相手を人間ではないとタカを括ってるからである。動物たちだって生き残るために脳を進化させ、優れた能力を有しているのだし、中には人間にはない力を持つものたちは沢山いる。

しかし、何故道具を発明したり、誰かと意思疎通をするかと言えば、自分自身のためである。

自分の欲求、欲望を満たすためである。エゴである。このエゴを悪としてしまえば性悪説になるのだろうが、しかし、そうなると生物みんな悪いことになってしまうが、自然にすでにあるものたちを人間の価値で悪と断ずるのはあまりにも無理である。

エゴというこの一点において、私は他の生き物と人間との逃れようのない共通性を見出す。

人間は、社会で生きていくためにエゴを律し、ある程度の規律と自律の中で生きていくから獣っぽさが少なく感じるだけだろう。あと、毛も少なめだしね。

以下、エゴに関する余談。

過去に、『利己的な遺伝子』という書籍が流行ったから特に今更そのことについて語る気はないが、すなわちエゴイズムとは、必ずしも自分の為にだけではなく、子孫を守る為にも適応され、結果的に種の存続に不可欠な要素でもある。

しかし、そのエゴイズムを種の存続やら、子孫繁栄のために使用されない場合、どうなるであろうか。

国家の人口が少子化へと向かう要因、メカニズムについては諸説あるが、とどのつまり人間の性質が獣であるということとの関係性を否定できないのではないか。

ところが、近代化と現代化はそうした獣としての性質を推進、抑制、反省してきた歴史である。

19世紀イギリスの産業革命に始まり、西欧諸国は自国の利益というエゴのために技術を発展させ、その力を戦争と植民地支配に向けた。

結果、二度の世界大戦が起こり、西欧世界は同じ過ちを繰り返さないように様々な画策をし、過去の歴史が部分的に過ちだったことを反省し、今に活かそうとした。

その後の顛末は、覇権主義への報復とでも言うべきか、民族自決の機運が高まり、各国の紛争、クーデター、内戦を見ればわかる通りではある。が、ここでは先進国の様子に目を向けたい。

他国を侵略、支配する方法は否定された。故に、先進国が富むにはどうしたら良いか。即ち、他国の市場に参入するか、平和理な方法で他国の土地と資源を獲得する経済戦争の時代に突入する。

資本主義経済においては市場拡大のため、個人の欲望は最大限に刺激し、消費活動に差し向けることが重要になる。

このような消費活動は単なる、生活のための衣食住ではなく、少しでも良いものを、より優れた、ブランド力のあるもの、性能の良いものを志向することを最大の『良いこと』とする。また、そのような上昇志向のある消費活動はコレクター、オタク文化、アイドル文化とも相性が良い。

個人の趣味嗜好を刺激して消費させるような商品、サービスの発展は、まさに生物のエゴを利用している。

そしてこのエゴは時として、他者にも同じ趣味嗜好を共有して欲しいという欲求から伝染性を持つことがあるが、それは他の人間を生産するのではなく、すでにいる人間の価値観を上書きしているにすぎない。

このため資本主義経済におけるエゴイズムは生産ではなく、とことん消費への志向を先鋭化していくことになる。

結果、エゴを満たすことが生存の目的となる。

それは、生物としての種の存続や、種の繁栄とは相容れないエゴである。

エゴが種の存続に寄与するのは、そのエゴが子孫を産み、子孫を守るために適用されたときである。

エゴが当人だけに働くのであればそれはただの自己満足の完結に過ぎない。

人間の生き物としてのエゴが、人間としてのエゴで中和されたとき、人々はわざわざコストやリスクを背負って出産や子育てをしたがらないだろう。

そして社会全体がそのような考え方を否定せず、個人の自由だとみなす風潮があるのであればなおさらである。

もともと、結婚や出産自体がある種の社会圧や社会習慣に基づくものに過ぎない。

人々がそれらに魅力や、必要性を感じなければ自然に消滅していくだけの話である。

私自身、そうした状況を憂いを持った眼差しで見ているクチではあるが、この大きな漠然とした目には見えない潮流を一人の力では変えることもできないし、多くの人もどことなく不安に思いながらも何もできないからそっとしているのだろうと思う。


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