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めぐる言葉は心の代謝を促す。ウイルスに分断された世界で他者に取り残されたわたしが、他者の言葉で心を取り戻すまでのお話

このマガジンでは、もぐら会から発売予定の本、通称 #もぐら本 の制作秘話を少しずつお届けしています。今回は閑話休憩。制作チームのメンバーでありもぐら本の寄稿者でもある、ライターのヒトウイロコさんによるエッセイをお届けします。


 ランニングコースの異物

  なるべく日課にしようと努めているランニングのコースの途中に、気になるものがある。砂利敷の、3台ほど止められる広さのありふれた青空駐車場に駐めてある車で、たぶんハイエースというやつだ。なぜ気になるかというと、ちょこんと正面を向いて駐まっているそのフロントガラスからは中にゴミ袋がみっちりと詰まっているのが見えるからである。助手席から運転席まで幅いっぱいに、足元から天井まで天地いっぱいに、白くて丸いゴミ袋が詰め込まれている。ランニングは昨年の5月からはじめたのでかれこれ1年は観測を続けていることになる。おそらく廃車にもせず放置していたハイエースの中に、たまたま出たゴミを一時的に置いておくつもりが、どういうわけかこうなってしまったのだろう。その「どういうわけか」がわたしには気になってしかたがない。目の前のゴミ集積所に出してしまえばその日のうちに収集車が持ち去ってくれるだろうに、とりあえずのつもりで車の中に放り込んでいったゴミ袋が、じぶんで入れたはずなのに手に負えなくなって、入り切らなくなるまで詰め込まずにいられなくなった、その境界線がどこにあったのかが気になってしかたがない。

それでもって今日はもうひとつ気になるものを見つけてしまった。ゴミフルネスハイエースが駐められた駐車場の隣家には足元にいくつかのプランターが並べられている。詳しくはないのだが白いダリヤや青いヒヤシンスのような花がこんもりと植わっている。玄関脇の彩り。しかしどうも違和感があり時季を外しているような気がするし花弁がやけに煤けて黒ずんでいる。よく見たらプランターに植わっているのは造花だった。たとえば草花を植えたとき、雑に扱って土がかかってしまったとしても、次の日にはみずから力強く土を振り払って本来の色を取り戻す。長く咲いていたとしても植物の細胞は生きているので枯れるまで色を失うことはない。造花は生きてなくて新陳代謝もしないから、土ぼこりをかぶると黒ずんでしまうのだ。当たり前の話なのだがなるほどと思った。夏日と記録されるであろう日曜の朝、斜向かいの家の花壇の花は日の光をめいっぱい浴びて、みずみずしく白い色、青い色を輝かせている。

新型コロナウイルスがわたしたちの世界を変えはじめたころ、心の負荷が高すぎて何に対しても閉じていたいと思う時間がしばらく続いた。仕事がぱたりと来なくなり、フリーランスとしてそれなりの実績を積み信頼のもと仕事をして社会に参加していたつもりが、あなたのやってきたことはいざとなればなんの役にも立たないことであり今や社会に必要とされていないんですよと突きつけられたような気分に陥っていたからだ。これまで対等なつもりでつきあいを楽しんでいたはずの仲間の言葉がひとつひとつトゲのように刺さって抜けないし、じぶんのことも惨めすぎて話せない。これはよくない、しばらく引きこもっていようと思った。

ところがやっぱり、他者の言葉に小突き回されて沈み込んでいきそうになるわたしをすくいあげてくれるものもまた、他者の言葉だということも、どこかでわたしにはわかっていた。そんな折、もぐら会ではオンラインでパン焼きをしようという催しが企画され、わたしはじぶんを持ち上げるのがすこし難儀だなと思いながらも参加することにした。もっと沈んでからだと、ふたたび浮上するためにかかる労力は相乗的に大きくなることは経験的に知っていたからだ。ちょっと助走が必要なくらいの気分で参加したが、結果としてわたしの選択は正しかった、というか正しかった以上のものがあった。パンを焼くという作業が介在することで、たくさんの言葉をかわす必要もなくみんなの気配を感じながら過ごすことができたのがよかったのだろう。ああだこうだとパン生地のようすを報告しあいながら手を動かし、焼き上がりを喜ぶ。そして画面の向こうでメンバーのひとりの女の子が、パンとともにじぶんで作ったカレーをもぐもぐ食べはじめたのを見て、ああおいしそうに食べているなと思い、とても満ち足りた気持ちになってわたしはもう大丈夫だと思えたのだった。

わたしとみんなが見ているものは決して同じではないけれど

そのあと、もぐら会でのお話会や他のいくつかのオンラインでの会話を重ねていくうちに、わたしはじぶんの置かれた状況や打ちひしがれた気分について口にすることができるようになり、相手はそれを過大にでも過小にでもなくそのままの大きさで捉えてくれた。そしてわたし自身も相手が放つ言葉にありもしないトゲを感じることもなく受けることができる。そこにはどんなコントロールの意思も武装もなく、わたしは安心して会話に身を委ねることができる。あの子が食べていたカレーは信頼の象徴。わたしとみんなが見ているものは決して同じではないけれど、それぞれに違うものを見ているみんなと言葉を交換することで、どんな社会的ポジションかとかみんなに好いてもらえているとかそういう問題でもなく、ああそうかわたしはここにいるのかという世界の感覚を取り戻すことができるのだ。ここしばらくのわたしは、変わることを恐れ心を造花に置きかえてじっとやりすごそうとしていたようなものだなと思った。そのままでいたら、煤けて擦り切れたただの物体になってしまう。同じところにじっとしていることはちっとも悪いことではないけれど、動かずにいたとしてもどこかで信頼できるひとと言葉を交換しつづけて代謝していくことがわたしには必要なのだろう。そういう場があってほんとうに良かったと思うし、できれば不安に満ちたこの世界のみんなに、そういう場があってほしいと思う。

ゴミ袋が詰まったハイエースについても思うことがあったのだが、長くなったのでまた今度。次のお話会で話そうかな。




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