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コミックエッセイとエピソードトーク



コミックエッセイとエピソードトークは似ている。
「身の回りに起こったことを題材とする」点はもちろんだが、何より「観察眼によってネタに昇華する」という部分が大きい。

コミックエッセイでは桜玉吉、山本さほなどが好きだ。両方ともエピソードに恵まれる天性のものを持っている気もするし、その表現が巧みだ。何より、画力がある。純粋なデッサン力の高さというより、その瞬間を表現する画力だ。

全くの余談だがサツマカワRPGの持ちネタである「エピソードトークを途中まで」というネタをこのまえ動画で見て非常に笑った。途中で切るところに面白さがあるので尺の決まったR-1には向かないと思うが、バラエティの途中で挟まれたらかなり強いのではと思う。


本当に死ぬほど余談であったので再開。

少し前に「あちこちオードリー」が深夜ラジオのパーソナリティばかりが集まりプチラジオ回みたいになったことがあったが、その時に「小さい出来事をふくらませて話す」「トークがないと2~3日前から落ち着かない」「かといってトーク を作るために無理矢理出かけてもだいたい面白くならない」といったことが共感を持って語られていた。

おそらくこれは漫画もラジオも似たような悩みだと思う。そして厳しい時に話を膨らませるのが、絵のアレンジなのかトークの盛り具合なのかの違いだろう。
ただこの二つを考えると絵は絵柄の力や構図というテクニックがあるので有利だ。「面白い顔したおじさん」みたいなトークが、しっかりと絵として伝えられる強さがある。絵柄によっては顔だけで笑いが取れるだろう。
ただ、それなら漫画のほうがいいじゃん、という話でもない。漫画には漫画で「その場で反応がわからない」「後々残る」というデメリットがあるからだ。
まあラジオやテレビのトークも残るといえば残るんだが、本来は1週間くらいしか視聴できないはずなのであえて割愛。やめよう違法動画
ということで漫画は漫画でけっこう怖さがあるなーと思う。

まあ、ウケたスベったは表現の常といってしまえばそれまでなのだが。どちらにしても「調理する腕」が必要だし、長くやっている人はそのレベルが上がってくるのだろう。
そう考えると「特別な経験をたくさんしている人」というよりは「細かなことで も独特の視点でとらえることができる人」といえるのではないだろうか。

ただ、たまに信じられないような出来事に信じられない確率で遭遇したり、ナチュラルに事件を起こす人もいて、そういう人は「天然」と言われる。狩野英孝などはその代表格だろうか。やらかしや言い間違いなどの失敗は、正直狙ってやろうと思えばいくらでもできるのだがだいたいウソ感が漂う。それを漂わせずに爆笑を取るのだから、すごい武器だ。
ああいうのがウケるのは単なるポンコツブームだからだ、とか言われてるのも見たことはあるが、作為的にやったものを軽く超えていくこともあるのだからすごい。
で、逆にこういう人は観察眼を磨くことは不得手かもしれないけど、トークの磨き方が上手い人をうらやましがったりしそうだな。
天然の人は「笑われる感じより笑わせてる感じ」を欲しがり、そうでない人は 「練ったネタより遥かに大きい笑いを持っていく天然力」に歯噛みする。お互いないものねだりというわけだ。

ただコミックエッセイの漫画家で天然の人はいないだろうと思われる。理由は 「絵にして見せ方を考えている時点で天然じゃない」から。ただ別にこれは漫画家に天然の人がいないという意味ではない。漫画に注力しすぎてどこか抜けている人はいるだろう。そしてそれは「他の漫画家にエピソードとして描かれる」ことになる。そりゃあ観察する人にばかり囲まれているわけだから。

でも芸人でもほかの芸人の天然エピソードで笑いを取ったりもする。なんかそういう点でも似ているのかもしれない。もしその天然エピソードが出た時に複数の芸人が同席していたとしたら、もうそのエピソードトークは奪い合いだ。自分のエピソードがなくてもそれを使うことができるので、もしかすると天然芸人の周りはそれを狙っている人が集まっているのかもしれない…。
「コイツ何か面白いことやらかさないかな」と。
なんか、歩いているだけで貴重な羽根を落としていく鳥のような存在だな。羽根を拾うために遠巻きに見てるような。
そういう状況だと「あっ、なんかやらかしそう」と思ったらあえてやらかすまで放っておくということもあるのかも…と考えると結構コワイ。

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