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他人の評価など…いるorいらない

人の評価など関係ない。自分が納得するものを追求するだけ。
といったコメント、たまにありますね。インタビューとか、自分の宣言的なものとかで。ただ、結構こういうのが何かを受賞した人に聞いて出てくることもある。言ってしまえば「既に人から評価されてるではないか」という状況。
ただ、そういうツッコミをしながらも、仮にこれが何も受賞してなくて評価されてない人のコメントだとするとどうだろう。

受賞した人の場合
「この度は素晴らしい賞を受賞されましたね」
「いや、でもあまり人の評価とか気にしてなくて。自分が納得できるものを追求していくだけです」

受賞してない人の場合
「結果ダメだったらしいな」
「いや、でも人の評価とかどうでもいいし、自分が納得できるものを追求していくだけだから」

なんと、途端に出てくる負け惜しみ感。まあそもそも人に対して言う時点でそういう構図になってしまうのか。かといって誰にも聞かれてないのに急にTwitter とかで「今年はとにかく自分が納得するものを追求していきます。他人の目はどうでもいい。自分をどこまで高められるか、己との戦いです」みたいな宣言をしたとして「何か納得できない審査でもされたのかな」と思われそうだ。

なんでそうなるのか、これは単純に「評価」に言及してるからだ。人の目とか受賞とか。ホントに自分の納得いくものを追求してるだけなら黙々とやってるでしょ、と思われるだろう。ただまあこれもジャンルによる。漫才師が「客や審査員の評価とかどうでもいいんで。自分の漫才を追求するだけなんで」と言ってたら、 じゃあ壁にでも向かってやってろという話になる。では許されるのは何かというと、アート系ではなかろうかと思われる。
画家、陶芸家あたりが特に良い。作曲家や演出家だと客との関係が密接すぎるし、何よりヒットの基準が一般大衆にある。絵画や陶芸であれば専門家くらいしか評価できないので大衆の評価に依存しない感が出せるのだ。
例えて言うと、「めちゃくちゃいい歌詞とメロディなので外国人大物アーティストが褒めたけど誰も聞かない曲」というのはほぼありえない。いい曲なのにそんなに売れてないというのはたくさんあると思うが、あくまで「そんなに」である。 売れる枚数がゼロであればハリセンボンが曲を出した時のレコード会社の担当みたいな速度で人が離れていくので評価もクソもなく曲が出せなくなるわけだ。昨今は自分で配信する手もあるが、それもある程度の再生回数がなければやっていられない。一人がめちゃくちゃ褒めてくれてCD1枚速攻で買ってくれました、となって今後も歌を出していけるかといえば、精神的な満足はともかく、商業的には無理である。
これが陶芸家であれば、美術商が「これは1000万の価値がある」と評価して好事家がそれ以上の値段で買えば既に成立する。一般大衆から「全然よさがわからない」と言われても関係なく、だ。
そう考えると単価の問題なのかという話にもなってくるが…。

ということで、ホントに誰にも評価されてなかったら誰にも知られてないので宣言しようがしまいが関係ない。「誰の評価もいらない」というのは、実質的には 「ごく一部の理解のある人に伝われば良い」と同等の意味だと思われる。

とは言いながら、実際の話「目立ちたくない、評価は要らない」とかカッコ良さげな言動してると「孤高の人」みたいなラベリングがされて逆に目立つということもある。実はそういうキャラを狙っているならいいけど。

で、翻って自分はどうなのかと言われれば、普通に評価されたいし賞金が欲しい。まあそもそも公募に応募しておきながら「他人の評価とかどうでもいいね」 とは言わないわな。

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