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おんなじ話ができる「腐れ縁」という楽しさ。


少し前、木梨憲武がジジイ感を前面に押し出した曲をリリースしたのだが、その中で「また同じ話したかった」という歌詞に深くうなずいてしまった。長い付き合いの友達というのは、集まるともれなく同じ話をするのである。

これが若い人からすると、「ジジイ共はいっつも同じ話をしやがる」みたいなことになるわけだが、ジジイはわかっていて同じ話をするのだ。とはいえ、同じ話もダメなものとイイものがある。

ダメなのは「過去の実績などの自慢話」で、イイのは「共有できる思い出話」である。

ダメな例に関してはすでにこの字面で全部説明できているだろう。
「俺の若いころに手掛けたプロジェクトはよ、不眠不休でな、その頑張りが認められてワッハッハ
みたいなやつである。いや、それも相手が一緒に苦労した相手ならよい。若い人相手に話すのはだいたいマウンティングが入ってくるからダメなのである。あとついでに言うと「昔は俺もけっこうワルでな」おじさんも嫌がられるが、こっちはまだ比較的ネタになるのでよしとしてやろうじゃないか。どういう立場の発言だコレ。

この話長くなりそうなので、イイほうの話に。「共有できる思い出話」というのはクラス会などでよく出る「あの時あれあったよな」である。でもちょくちょく会ってる人間の間でも出るときがある。ちなみに自分は付き合いの長い友達グループがあり、ちょこちょこ何人かと会ったり、盆や年末年始にはいまだにみんなで集まったりする。グループの中でも長い奴はもう30年以上の付き合いがあり、ヘタするといまだに小学生時代の話が出る。というか出す。出しながら「毎回これ言ってる気がすんなあ」と思うときもあるのだが、出す。なぜかというと楽しいから。

言ってしまえば、これはけっこう「あるあるネタ」みたいなものなのだ。身内限定の。「あったあった」という感覚で笑えるもので、その事柄自体の面白さというより、すでに自分の中にある面白さの記憶を引っ張り出す感じ。
身内限定、ということで気を付けないといけないのは「ほかの人間に話してもちっとも面白くない」ことである。当然だ、記憶を共有していないのだから。ただ中には「これはほかの人間に話しても面白いんではないか」というネタもある。その場合はその友人のキャラクターが面白いのだと思う。
自分の友人には「中学に入るまで自転車に乗れなくて友人に特訓され、ついに自転車仮免を友人から付与された」とか「自動車学校の合宿を終えて、その日のうちに帰るために全力疾走の末に列車に飛び乗ったが逆方向だった」とか、ウソみたいな逸話を持つ人間もいる。この話はいろんなところで話した経験からするとだいぶ受けがいいが、やはりこれもキャラクターありきだろう。

しかも同じことを話しているので、なんかいつの間にか話し方が洗練されてきた気がする。
気を付けたいのは「面白い奴がいてさ」みたいに無駄なハードルを上げないことである。

とりあえず年末年始、またも同じ話をしていきたいと思う。

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