【遺書6】"共感"に対する違和感
自分は“共感”という言葉に違和感を覚えていることに最近気が付いた。
自分が体験してきた経験や過去の出来事について、その時感じた気持ち、つらい思い、逃げ出したくなった気持ち、辞めてしまいたくなった気持ちを話したり、書いたりする。
それに対して、話を聞いてもらい、書いた文章を読んでもらい、それはつらかったね、逃げ出してしまいたくなるね、辞めてしまいたくなるのもわかる、そんな風に言ってもらう。
話を理解し、受け入れ、寄り添って、共感してもらう。
それで気持ちが楽になったことがない。
救われた気持ちになったことがない。
理解者が現れたことにうれしく思うことがない。
共感してもらったことに何も感じない。
逆の立場になった時だってそうだ。
誰かの話、気持ちに共感してあげる、というのが苦手だ。
というか、共感なんてしてあげたところでどうする?という感覚がある。
話を黙って聞くことはできる。
理解することはできる。
自分だってその立場になったら、その状況になったら同じ気持ちになってしまうといってあげることはできる。
同じような自分の経験を話し、同じ苦しみを味わってきたものだと証明し、同じ目線に立って話してあげることはできる。
苦手とはいったが、きっと共感することはできる。
だが、それだけだ。
それでどうなる?と思ってしまう。
みんな共感されたら救われるのか?
共感されたら気持ちが楽になるのか?
共感しあえたら何か生まれるのか?
カタルシスをもたらしあえたら何か変わるのか?
自分には共感というものに価値を感じられなかった。
何かが足りないと感じていた。
何かずれを感じていた。
何か自分の求めている感情とは違う気がしていた。
だから、”共感”という言葉に違和感を覚えていたのだ。
では、”共感”ではなく、何を求めているのだろう。
自分の中では2つの答えが導き出された。
一つは圧倒的な答えだが、非現実的なものだ。
答えの一つは”絶対的な正解”。
自分は過去の経験、出来事、つらかった気持ち、逃げ出したくなった気持ち、辞めたくなってしまった気持ち、そんなものを話すときに、そのような出来事や気持ちを由来とする今現在のつらい状態やつらい気持ちをどうすればいいか、ということの答えを求めていることに気づいた。
そもそもの目的が今目の前にある問題をどうするか、そのために過去の話をしている。
だから、過去の話、気持ちに共感されるだけでは不十分だったのだろう。
だから、正解が欲しいのだ。
解決策が欲しいのだ。
寄り添いや共感やカタルシスではなく。
しかも、間違いないと思える絶対的な正解が。
合理的正当性と感情的納得感を得られる完璧な解決策が。
だがしかし、そんなものはあり得ないということも分かっている。
仕事にしても心の問題にしても人生そのものにしても、絶対的な正解なんてものはないことはわかっている。
ただ、心の奥底で真に自分が望んでいるもの第一位は”絶対的な正解”なのだろうと思う。
共感ではなく本当に求めているものの答えは二つあると前述した。
では、第二位は何なのか。
それは”安心感”だと思う。
とにかく自分は焦りと不安と緊張の中に生きていると思う。
それらを拭い去れるような安心感を求めているのだと思う。
“絶対的な正解”が欲しいと思うのもある意味”安心感”が欲しいからといっても過言ではない。
その意味では”安心感”が本当の第一位、いや殿堂入りなのかもしれない。
今自分の歩んでいる道が間違いではないという安心感。
過去の経験を糧に今はこうして生きている、それが間違いではないという安心感。
仕事の目的、進め方が間違っていないという安心感。
今自分のやるべきことが間違っていないという安心感。
自分の目指すべき姿が間違っていないという安心感。
絶対的な正解ではないかもしれないが、決して間違ってはいないという安心感。
そんなものを求めているのだと思う。
だから、話を聞いてもらい、共感してもらうだけでは、自分の求めている感情にたどり着けていないという不全感、違和感があったのだと思う。
自分が求めていたのは共感ではなく安心感だったから。
逆の立場でも同じだ。
話を聞いて、共感してあげるだけでは足りないのではないか。
それだけで役目を果たした気になっていいのか。
胸を張って人の役に立ったといっていいのか。
何か負い目がずっとあった。
何もしていないのと同じだと感じていた。
安心感をもたらしてあげる、そこまでしてこそ相手の役に立ったと言えるのではないか。
そんな風に考えるようになった。
改めて。
このnoteは自分の遺書のつもりだ。
すぐに死ぬことはないと思うが。
一方で、いつ死んでもしょうがないと思っていることは事実だが。
特定の誰かにどうしても伝えたい思いがあるわけでもない。
日記やブログや、あるいは人の役に立つための情報発信の場だとかではない。
遺書だと思うことが一番気が楽だったからだ。
ただ、自分の考えや悩みや思うことを残していく場だ。
自分は死に向かって生きている。
将来こうなりたいとか、何をしたいとか、特にない。
ただ、万が一誰かの何かの役に立つべき時が来たとするならば。
誰かの悩みを聞くことがあったとするならば。
誰かのつらい経験を聞くことがあったとするならば。
自分は共感するだけでは終わらせたくないな、と思った。
自分にできる限りの安心感を与えてあげたい、と思った。
そんなものは不要でしょうか。
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