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掛け算順序問題

◉Twitterなどで、定期的に話題になる、掛け算の順序問題。うちの子供がこれでバツにされた許せん──という親ごさんの怒りは、わからんでもないですが。ややヒステリックな状況になっているな……という印象はあります。その是非について判断を下す気は、自分にはいっさいないですが。大学や専門学校で教えていた立場と多少の経験からすると、そう単純な話ではないという感触はあります。こういうブログの指摘もありますしね。

【掛け算の順序は強制されるべきかもしれない ただし今までとは逆の順序で】Pineapple Blog

小学校の算数の授業では,掛け算の式を立てさせる問題で,項の順序を指定することがあるそうだ.簡単に言うと a×b という式を立てると正解で,値が同じになる b×a という式を立てると不正解にするケースがあるそうだ.

この話題は定期的にネットニュースに流れてくるので,かなり根深い問題なのだろう.僕自身3年前に掛け算の対称性こそ宇宙の審美性を表していると主張し「この宇宙の審美を,いかなる資格を持って否定するのか」と糾弾した.また最近,茂木健一郎が「小学校の算数にまかり通っている「奇習」は、子どもたちに対する「虐待」である」という記事を書いている.

https://pineapple.blog/%E6%8E%9B%E3%81%91%E7%AE%97%E3%81%AE%E9%A0%86%E5%BA%8F%E3%81%AF%E5%BC%B7%E5%88%B6%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84-a03fb99fe57b

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、リーマン予想周辺で登場する数式だそうです。ゼータ関数、バーゼル問題、素数計数関数など。呪文ですか?

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■数学に潜む文法問題?■

詳しくは、上記ブログを読んでいただくとして。個人的には、森毅先生の「交換法則で(掛け算の順序が)どっちでもよくなるというのはウソで,高校では行列のように交換法則の成り立たない乗法が出てくる…」という意見は、さすがエッセイストとしても非常にすぐれた文章を書かれておられていた森先生です。文系と理系を横断する数学者だな、と。というか順序に批判的な他の数学者も、
 (単価)×(個数)=(合計) 
という順序、すなわち「数学の文法」は約束事として認めましょう、という立場なのに。ここをすっぽり抜かして議論してる人が、かなり多いですね。フォロワー4桁いかないタイプや、多くは3桁前半のタイプに(偏見)。

自分で計算して答えを出すのと、他人に指導して教育するのは違いますから。ここ、大事です。上記ブログで紹介されている数学者たちは、同時に教育者でもあるので。だから、この文法という考え方は否定していないんですよね。そりゃそうでしょ、ブログ主も書いているように、数学で頻出する未知数を表すxyzだって、フェルマーの最終定理を勝手に zn + yn = xn と表記されたら、困りますから。「xn + yn = znでもzn + yn = xnでもyn + zn = xnでも、未知数なんだからどの順番でも良い」とは、数学者ならば絶対に言わないでしょう。

■数学は実学であるのだ■

「国語の読解や文法の問題を数学に持ち込むな」という意見も、チラホラ見かけます。でも小学校での学習って、バラバラに学んで他ジャンルとは独立・不可侵でいいのか、という部分はあります。大学や専門学校で教えているときの個人的な経験として、透視図法の理論を教えている最中に、気づいたことがあります。美大の生徒の多くが文系で、数学が苦手というタイプが非常に多いんです。

ところが、透視図法は数学の幾何学の一種で、数学者のユークリッドや、画家で建築家でもあったジョット・ディ・ボンドーネなども言及しています。なので、数学が苦手で文系の美大に進学した人間は、絵画に数学が登場するのに面食らうのですが。絵を描くという行為が実は、数学的な裏付けによってなされているということを、分かりやすく説明してやると、目を輝かせます。高校の数学どころか、「小学校の算数の分数が絵を描くために重要だと初めて理解しました」と感動する生徒も多いです。

また中学校を卒業して、職業訓練学校に行って大工になった友人なども、実際に大工になるには規矩術と呼ばれる、大工のための数学の習得が必須です。大工道具で最も使う、 L 字型のさしがねと呼ばれる定規は、裏の目盛が√(ルート)の数字になっていますから。これで、丸太の直径から何センチ角の柱が取れるか、計算できます。過去には「サイン・コサイン・タンジェントを女が学んでも意味がない」と放言した、馬鹿な鹿児島県知事がいましたけれども。土木建築は数学と、とても密接ですから。エジプトでも、毎年の洪水の後の土地の区画を決めるために数学が発達したとか。絵描きや大工に数学が必要なように、数学にも国語力は必要なのです。

■混乱する大学生の存在■

それとは別に、「……という方法もあるけれど、こういうやり方でも同じです」と教えると、途端に混乱する生徒がいるのです。最初の方法を教えた時にはスッと理解できたことが、別の方法を教えると逆に、出来なくなってしまう。単に混乱してるのかなと、最初は思ったのですが……そういう反応とは少し違うんですよね。で、教育学の専門家の准教授などに話を聞くと「それは一種の発達障害でしょうね」とのアドバイス。

自閉症などにみられる行動パターンとして、本人のこだわりのある行動を踏襲しないと、落ち着かないというパターンが見られたりしますが。これを儀式的行動と呼ぶそうです。発達障害も、ある・ないのゼロイチで切り分けられるわけではなく。個人によってだいぶ、グラデーションがあります。会話など普通にできるし、むしろ知能的には高い人間でも、この実質的行動を踏襲しないと、落ち着かないレベルであったり。ちなみに自分は小学校三年まで、文字を反転させるクセがありました。

で、教育学の方の例え話として、とても心に残ったのが。例えばA地点からB地点まで行くとして、普通の人が二つや三つのルートを見つけられるに対して、発達障害の人はひとつしか見つけられないタイプがいる、と。このタイプに第2のルートや第3のルートを見つけるように言うと、パニックを起こしたりしがちだが。しかし、そのルートの道幅を広げることはできる、と。ウチの講座の指導方法を見直す、きっかけとなった教えです。

■道順を増やすと広げる■

効率よりもまずは、一本のルートを受講生には教え、次にそのルートを広げる方法を教える。ルートの数を増やす方法は、一旦ゴールして技術が完結してから教える。この方法を見学した人は、効率的でないと口を挟みがちです。Twitterで順序問題を攻撃する人たちのように。ところが、自分が実際に教える立場になると、多様な教え方に混乱を起こす学生に、戸惑います。そこで「こいつは才能がない」と切り捨てる人もいますが、そういう生徒も教育しようとして初めて、MANZEMI講座の指導方法がいかに考えられたものか、理解できるようです。できない人も一定数いますけどね。

自分自身はイロイロな格闘技を経験した人間ですから、優れた格闘技というのは一番最初に学ぶ基本の基本が、最終的な奥義までつながっていることとの、類似性に思い当たります。技術の体系化というのは、そういう事なのでしょう。一本の線で基本と奥義がつながっている。例えば、中国武術のパンチは、拳を縦方向にする縦拳が多いです。でもボクシングだと、拳を横にした横拳のパンチが基本です。パンチだけに限れば、ボクシング方式の横拳の方が、効率的で有効です。しかし多くの武術は本来、総合的なのです。

というかむしろ、剣術や槍術などの武器術がまずありきで、拳術は補助的技術だったりします。素手より武器が強いんですから、当然ですね。刀や槍を持つ時は、拳の方向は縦拳です。よほどの天才でない限り、刀の素振りとパンチの素振りが、同じく運動原理でまとめられている方が、練習するとき効率的ですよね? 練習時間は有限ですから、これは当然ですね。相撲の突っ張りも、空手の掌底打ちや自分が学んだ骨法の掌打とは異なり、親指が上にくる形でプッシュします。なぜならば、相手の胸の下を押す時の「はず押し」の技術と、同じ手の方向だからです。

■各論間違い・総論正解■

単純に相手を殴るのであれば、ボクシングのパンチ技術は、とても洗練されています。ですが技術を体系的・総合的に考えた場合、一見非効率に見える縦拳のパンチや相撲の突っ張りのやり方が、とても合理的になるわけです。ここら辺の話は著書や、あるいはTwitterでも何度か、断片的に話してきたことなので、こんなツイートをしました。案の定、一見さんがトンチンカンなことを言ってきましたけども……。

もちろんコレに対しても、知的なリプライや引用ツイートをしてくる人もいて、勉強になったです。最初から喧嘩腰だったり、コッチの言い分を理解できず、言ってもいないことを脳内補完する人間がワラワラ来たので、バンバンとブロックしましたけどね。話しても無駄な人とは話をしない、自分のフォロワーや理解力がある人だけ、やり取りを楽しめればいいですから。知的なリプライや引用を、いくつか転載します。

これはとても大事な指摘で、まっすぐという言葉には直線的にという意味と、寄り道をせずに最短距離で、という抽象的な意味があります。この二つ目の意味をすぐ自分の中の辞書に収録できる人が、先に書いたルートを増やせる人。ところが、ひとつのルートしか書けるスペースがない人もいるわけです。そういう子には、頭ごなしに否定するのではなく、「曲がり角では直角や45度にターンすれば、帰れるんじゃないかな?」と言ってやることが、大事だったりするわけです。

■抽象化は難しいのか?■

こちらの方は、最初の方であげた (単価)×(個数)=(合計) という順序すなわち「文法」についての考え方に、近いですね。例えば発明王トーマス・エジソンは、1+1=2が理解できず、小学校退学になっています。彼は、1個の粘土を別の1個粘土とくっつけたら、一個の大きな粘土じゃないかと考えて、納得しなかったからだそうです。個数と質量と属性(粘土とリンゴの違い)を切り分けるのは、実は抽象的な思考ですから。

物事を抽象化するってのは、できない子にはそうとう難しいです。そうやって分解して考えられない子が、一定数います。 これは古代の人類もそうで。論語で誠実と言った場合、抽象概念としての誠実ではなく、具体的に誠実な人間の存在や行動と、不可分なだったようで。 エジソンも、粘土という属性と切り離して、数字を考えられなかったのでしょう。 逆に普通の生徒は、教師に言われたらたいして考えず丸暗記して、属性に思いが至る以前の問題だった訳です。

なお、この教師がリンゴ1個で例えればエジソンも理解できたという人もいますが。それは教育の素人の考えで、駄目ですね。「リンゴはそうだけど、粘土は違うじゃないか」とエジソン少年に問われたら、どうするんですか? 小学生に抽象概念を納得させたり、属性の切り分けを平易な言葉で、説明できますか?

■落ちこぼれを救う教育■

こちらの意見も、とても貴重です。

このツイートに対して上記のブログをリンクしてくださる方がいらっしゃいました。そして、こういうツイートが。

重要な指摘なので、画像も転載しますね。

この、量が数に先行するという考え方は、発表された時代を考えれば、物凄い慧眼ですね。先ほど書いた、ルートの数を増やすことはできなくてもルートの幅を広げることはできる、という考え方にも通底します。この水道方式には、批判もあるでしょうけれども。少なくとも、できない子を見捨てない、落ちこぼれを出さないという考え方自体は、教育として間違ってはいませんよね。効率論では、また別の考え方になってしまうかもしれませんが……。

でも、1970年代後半は校内暴力が社会問題となり、その背景にはひとクラスあたり大すぎる生徒数で、授業についていけずに落ちこぼれる人間が多かった、という部分もあります。自分が小学生だった70年代は、田舎の学校にはまだ特殊学級はなく。学校に登校はしてきても、机にじっと座っていられないので、騒いで授業の邪魔をするぐらいならばと、教師も放置。給食の時間以外は、一日中学校で遊んでいる同級生もいました。

恵まれた都会の、あるいは田舎でも私立学校は知りません。そんな時代にあって、落ちこぼれをなくしたり算数嫌いを減らそうという、よく考えられた教育方法論が、たぶん20年も経たない内に、そうやる理由部分が置き去りにされて、手法だけが残ってしまう。仏教典の呪文化と同じ現象が、教育の現場でも起きた可能性が……。そう考えればこの問題は「うちの子供がバツにされたこの教育は間違っている」という、単純な問題でもないことが見えてきます。

■個人的体験の良し悪し■

ついでに、ダメな方のツイートも、転載しておきますね。2000年代以降に急速に強くなったのは、ネットの普及で騒ぐ人が可視化されるようになったからでは? けっきょく、自分の狭い体験を元に断言しちゃう人とは、会話にならんのですよ。得るものがほとんどない、典型的なツイートです(嘆息)。冒頭のブログにもあるように問題は70年代、まさに自分が小学生の時から、論争になっていたわけで。

コチラの方の、こういう実体験の方がむしろ、意味がありますね。かけ算の九九も、ニサンガロクとサンニガロクは、抽象的な意味では同じことを言っていても、別の記憶の壺の中に入っている、別の存在なんですよね。算数や数学が最初から得意だった人には、それがわからんのですよ。

こういう、素朴な体験談、ありがたいですね。

■労働価値説と順序問題■

エジソンは決して愚鈍な人間ではなく、普通の人間がそんなものだと何の疑問も持たずに丸暗記してしまって教師に褒められるのに対し、抽象化の部分で疑問を持ったからこそ、学校を退学になってしまったのですから。天才がしばし狂人に見える理由も、そこにあるのかもしれません。また元のツイートから更に連想を広げて、こういうリプライを投げてくれる方もいらっしゃるわけで。こういうリプライだと、さらに話が弾むんですけどねぇ~。

カール・マルクスは、人間の労働が価値を生み・労働が商品の価値を決めるという理論である労働価値説を、古典派経済学の理論から受け継ぎました。ところが、貨幣について研究した経済人類学の学者たちの見解は、違っていました。金銀や宝石など、そういう希少な地下資源ではなくても、コウモリの顎の骨でも宝貝でも、貨幣になり得るという。それはその共同体の中で「これは価値のあるものだ!」という一種の共同幻想が成立すれば、それは貨幣になり得るのです。

労働価値説を根本から否定するし、逆にケインズの美人投票論にも通じる、知見ですよね。興味がある人は〝ケインズ 美人投票論〟で検索を。ケインズ経済学は、今では古臭い経済学のイメージがありますが、新たな知見が積み重なると、むしろ本質を見抜いていた慧眼に、素人には思えます。丸山圭三郎先生の構造主義の本で、ある部族の特殊な婚姻のルールが、親族の代数構造で解き明かされたことにも繋がるというか。これらの本を初めて読んだときは、衝撃でしたね。

まさに現代の貨幣論とも、つながっているわけです。仮想通貨に対する、ある種の胡散臭さとか懐疑論は、実は抽象と具象の、古くて長い問題です。

■固定信用貨幣論の衝撃■

自分は、数学も経済学も苦手な人間です。でも、江戸時代の経済官僚であった荻原重秀は、日本史上最高レベルの経済学者であったのではないかと思っています。同時代の大学者・新井白石にボロクソに批判され失脚、最後は抗議のために餓死したという噂もある人物です。貨幣懐中で質の悪い金貨銀貨を流通させたため、インフレを起こしたと長らく批判されてきた荻原重秀。どうも、そのインフレは嘘だったようですし、逆に新井白石の時代にデフレが起きてしまったのは事実。

荻原は貨幣改鋳にあたって、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今鋳るところの銅銭は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」との言葉を残したと、訊洋子が著した『三王外記』に記録されています。『三王外記』自体が信用できない書だという意見もありますが。でもそうなると、欧米よりも200年も早く固定信用貨幣論を言ったのは誰だということになってしまいます。

経済人類学は、なぜ人類は経済活動なんてものを始めたのか、そのためになぜ貨幣などというものを生み出したのか、そういった人類の諸現象を解き明かそうとする学問です。物々交換から経済が始まったとよく言われます。魚と毛皮を交換するのは理解できるのですが、魚が腐ってしまえば交換することはできません。ところがそれを貨幣という抽象的な存在に置き換えることで、経済活動がスムーズに行われる。これってよくよく考えればすごいことだと思いませんか?

■順序問題まとめとして■

掛け算の順序問題から、人間の脳とか文化とか人類学とか、ものすごく話が広がってしまいましたね。この問題に興味を持って、検索してこのnoteに辿り着いた人の、知的好奇心を刺激する内容だったと思っていただければ嬉しいのです。読んで損をしたと思った方には、予めお詫び申し上げます。ごめんなさい。駄文失礼致しますm(_ _)m それでは最後に、冒頭のブログの結論部分に対する自分の感想を書いて、雑文を締めたいと思います。

具象から抽象へすーっと行ける「理系の人」は,量の世界などと言われると[引用者注:式と計算の区別のこと],そんな中途半端なものがなぜ必要なのかと,足を引っ張られるように感じられるのでしょう.しかし,抽象世界へすーっと行けない「文系の人」は,式の「意味」などを考えてしまい,それに納得できないと,抽象の階段を上がることに抵抗します.

https://pineapple.blog/%E6%8E%9B%E3%81%91%E7%AE%97%E3%81%AE%E9%A0%86%E5%BA%8F%E3%81%AF%E5%BC%B7%E5%88%B6%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84-a03fb99fe57b

ブログの意見には納得しますが、ブログ主の結論は、やはり理系の人間の傲慢に思えます。ブログ主の黒木玄氏は、「このレベルの抽象の階段を登れない」と、幼き日のエジソンを切り捨てた学校教師と、同じじゃないですか? 文系の愚か者を切り捨てることは結局、賢者を切り捨てることにも繋がる危険性があるのではないでしょうか? 賢者は愚者のための方法論で抑圧されても、切り捨てられても、自力で復活できます(できないのは賢者ではなく2流の秀才)。少なくともエジソンは、色んな人間の生活を豊かにしたり便利にしたり楽しくしたのですから。

どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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