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庵野秀明は虫プロの夢を見るか?

◉このnoteを書こうと思った発端は、こちらの葛西伸哉先生のツイートでした。確かに、そこには原始共産制のようなユートピアは描かれず、リアリティのある共同体が描かれています。物議を醸した田植えシーンですが、なぜ庵野秀明監督は描いたのか? 自分なりのシン・エヴァンゲリオン論はあるのですが、かなりの長大なモノになるので、作品とは直接は関係ないスタジオχαράについて感じていることへの、部分的なまとめを先に。

庵野秀明監督の作品テーマは常に、エディプス・コンプレックス=父親殺しですが。父親否定と父親肯定の狭間で揺れてる、といった方が正確かも。結論から先に言えば、作品内のみならず現実の組織運営の面でも、宮崎駿監督やジブリの方法論を否定をしつつあるな、ということです。 ※以下、映画のネタバレが一部あります。読み進める方は、自己責任でお願いしますm(_ _)m

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■原始共産制と民主主義■

これはシン・エヴァの親殺し論に繋がるんですが、葛西先生の指摘は高畑勲監督や宮崎駿監督の描いた、原始共産制的なユートピア=理想郷への、庵野秀明監督なりの反論、アンチテーゼじゃないかなぁ、と。東映動画でのアニメ制作よりも先に、組合活動で知り合った高畑・宮崎コンビの作品には、そういう共産主義の平等の理想が描かれることが多いですね。

『未来少年コナン』でのハイハーバーや、『風の谷のナウシカ』の風の谷、『もののけ姫』での蹈鞴場やアシタカの村などなど。それらは『太陽の王子ホルスの大冒険』が原点なのですが。『天空の城ラピュタ』でも、ラピュタ人は文明否定に走り、地に足の付いた(と宮崎駿監督らが考える)生活を選択します。ゆえに高畑勲監督は、ナウシカでは民の生活が描かれていないので30点と、低く評価したのですが。

シン・エヴァでは、エヴァのパイロットはレイもアスカもシンジもマリも、どうやら人造生命体なので、ずっと成長せず、つまり子供も作れないことを伺わせます。アスカは寝ることさえ不要という描写があります。つまり、永遠の14歳。これはずっとアニメや特撮という、子供のモノと思われた表現に拘り続けた、庵野監督自体の大人子供の部分の、メタファーなのでしょうけれど。

■世襲の肯定と否定■

でも宮崎駿監督から宮崎吾朗監督へ、世襲体制に入ったスタジオ・ジブリと違い、庵野秀明監督には遺産を継がせるべき子供がいないからこそ、組織としてのスタジオχαράのずっと未来での永続性に、シフトしているような気がします。自分がいなくなった後も、もし自分のような才能の人間が出たときの、受け皿となるような組織がずっと続いて欲しいという思い。

これは、庵野監督より9歳年下の自分でも、老い先を考えるのですから、当然でしょうね。スタジオχαράは2006年、庵野秀明監督46歳の時の設立ですから。ジブリは鈴木敏夫プロデューサーも明言するように、もともと宮崎・高畑監督のための、一代限りの存在でしたが。ジブリは宮さんの下駄──スタッフが宮崎駿監督のための道具──と評した庵野監督なので、一人のカリスマに万民が奉仕する体制ではない組織作りを意識したはず。

イロイロと欠けたところはある才能が集まって、集合知を発揮する場としてのスタジオχαράを考えていて。そこが自分が現場を去った後も永続する環境を作ろうとしてるとしたら……。そこには、組織の運営論と運営方法が両輪として必要です。それは経営のプロ、といって良いでしょう。でも、アニメーターはクリエイターであって、マネージャーでもなければ、経営者でもないですから。

■ジブリとピクサーとχαρά■

であるならば、便宜上のトップはいても、才能集団・作家集団の緩い連合というか、柔軟な組織が必要なわけで。それって技術者を社長に据え、個室を与えない役員大部屋制度のHONDAのような組織を作りたいのか? 「ウチは社長がだらしないんで社員が支えてくれます」は何代目かのHONDAの社長の言葉ですが。これって、割と重要だと思うのです。

上意下達のワンマン社長の体制でなく、社員が社長という神輿を担ぐ体制。数年前に取材したIT企業も、ワンフロアで社長の仕事が全社員に見える構造を、あえて持たせていました。役員大部屋制度どころか、全社員大部屋制度。人材育成という点では、ピクサーの創設者ジョン・ラセターを思い出します。庵野秀明監督同様に、ジブリを尊敬しつつも、彼もジブリを反面教師にしたような面がうかがわれます。

早くから人材育成に努めたジョン・ラセターは、結果的にセクハラで彼自身が事実上の追放をされた後も、ピクサーが永続するような組織作りをしていました。個々の才能ある若手監督を育てつつ、その才能が集団で作品作りしても通用する『ズートピア』など、とても興味深い組織作りです。スタジオχαράもそれに近いところを目指してるのか?ちなみに 不動産運営に関しては、樫原監督の、こんな指摘を付け加えておきます。

■絶対王政から立憲君主制へ■

もっとも、宮崎駿監督は『もののけ姫』で、高畑勲監督の原始共産制的なユートピアから、アシタカ王による統治と製鉄や農耕という部分的文明肯定にシフトしていて、これが宮崎吾朗氏への世襲に重なります。宮崎吾朗監督は、サラリーマン経験もあるせいか、スタッフからの人望はあるようで、そういう意味では宮崎駿絶対王政から宮崎吾朗立憲君主制へと、シフトしつつあるようではありますが。

しかし、世襲は有り得ないスタジオχαράが後継者を指名し、民主的組織として前世代の方法論を否定するのなら。これこそ、宮崎駿監督や鈴木敏夫プロデューサーの方法論の否定であり、まさに庵野秀明監督によるエディプス・コンプレックスの克服=親殺しの完遂です。そもそこ庵野秀明監督は、自分自身もガイナックスの変質を経験し、岡田社長や山賀社長の変質も見て、挫折もしています。

そして、庵野秀明監督の目指すであろう組織は、スタジオ・ジブリよりも手塚治虫先生の旧虫プロに類似する可能性を、自分は感じます。宮崎駿監督も富野由悠季監督も、無視できなかった巨匠。漫画の神様という評価は今後も揺るがないでしょうし、テレビアニメというジャンルの開拓が、間違いなく日本のアニメーションが大発展した理由ですから。そこに類似するのは、ある種の必然。

■立憲君主制的だった旧虫プロ■

宮崎監督らの古巣の東映動画は身分制度があり、学歴のない社員は非正規雇用で、ずっと正社員にもなれなかったようで。演出や監督は、大卒の正社員しかなれなかったとか。絵が描けない高畑勲監督が、若くしてアニメーションの演出や監督になれた理由は、東大卒の学歴ゆえ。ところが旧虫プロは才能次第の実力主義。このため、虫プロの引き抜きに応じる東映動画のスタッフが続いたわけです。

しかも、給料は東映動画よりも良かったという証言が、数多くあります。東映の倍出すと言って、引き抜いたとか。手塚治虫先生が昭和から平成に移り変わった1989年に亡くなったとき、宮崎駿監督が追悼そっちのけで、アニメ界の貧乏体質は手塚治虫戦犯説を語ったため、なにやら旧虫プロ自体も貧乏だったかのようなイメージがありますが。実際は学歴に囚われず、重労働でも給料も良く。

おかげで富野由悠季監督や出崎統監督をはじめ、幾多の才能が育ったのが、旧虫プロだったのです。高畑・宮崎コンビが東映動画で目指した平等の理想を、先に実現しちゃった。それどころか、『太陽の王子ホルスの大冒険』で大失敗した高畑勲監督に、その才能を発揮できるテレビアニメの世界を切り拓いたのがテレビの『鉄腕アトム』だった皮肉。まぁ、この宮崎駿監督による手塚治虫否定も、一種の親殺しなんですが。

■立憲君主制から民主主義へ■

しかし自分で作った虫プロが途中から商業主義に変質したため、手塚治虫先生は負債を背負って経営から身を引き、倒産後の虫プロが労働組合を中心に新組織として残った部分を見ると、イロイロと感慨深い部分があります。自分のアニメ制作の夢を叶えるために創った虫プロも、社員が増えて利益が出ると、理想と現実の狭間で分裂が起きてしまった訳で。

組織が理想を維持するのは、かくも難しい。旧ガイナックスも、似たような道を辿りましたね。もともとは『オネアミスの翼』を創るためだけに若き才能が集まり、完成したら解散する予定だったのですが。莫大な負債を抱え、コレを返済するために作品製作やゲーム製作を続けざるを得ず。それがOVA『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』などの名作が生まれたのですが。2006年には庵野秀明監督も独立。

でもこうやって見るとスタジオχαράって、手塚治虫先生の理想に近い運営を目指してないですか? 学歴関係なく才能で仕事ができ、でも作家集団として理想も追う。なので製作委員会方式でなく、自己資金でシン・エヴァも製作したわけで。まさに、初期の虫プロです。でも、手塚ルミ子さんもツイートされていましたけれど、自己資金って危険性もあるわけで。映画作りは博打ですから、経営のプロ、必須です。

■クリエイターが経営者になる■

漫画は個人経営、多くても家内制手工業のレベルでやれますが。アニメやゲームの場合は、ある程度の人数が必要で、でもクリエイターは加齢と共にある程度は組織内で管理者側に回る必要があるわけで。その究極が、社長という経営者なんですが。でも、クリエイターと経営者では、求められる資質が基本的には違うわけで。ここら辺の問題を指摘したのが、こちらの一連のツイートでした。

PMとは、プロジェクトマネージャーのことでしょう。ボルテージ社長とは、津谷祐司ボルテージ社社長のこと。ボルテージ社は、恋愛ゲームなどのモバイルコンテンツ制作会社で、東証一部上場。クリエイターとプロジェクトマネージャーを切り分けて、餅は餅屋に任せる手法で成功したようですが。これ自体、やはり現場が解っているプロジェクトマネージャーは必須だとは思いますが。

■経営のプロは必須■

手塚治虫先生を批判した宮崎駿監督だったのですが、自分がジブリを創ると、理想と現実の乖離が。アニメーターの正社員化を進言しつつ自分は役員にならない高畑勲監督の、他の社員が稼いだカネを『かぐや姫の物語』で湯水のように使う暴走を止められず。けっきょくは制作部門は解散。宮崎駿監督の個人事務所二馬力からの資金提供も受け、退職金はキッチリ出たようですが。

東映動画時代も『太陽の王子ホルスの大冒険』でも、高畑勲監督は同じことをしてる訳で。身の丈を超えた作品作りは、組織崩壊の一丁目。作家性の暴走それ自体は、自分も全否定はせんのですが……。実際、『太陽の王子ホルスの大冒険』も『ルパン三世カリオストロの城』も『オネアミスの翼』も、やっぱり自分にとっては傑作ですから。ガイナックスの放漫経営や、けっきょく高畑勲監督の暴走を抑えられなかったジブリなど、経営のプロがいなかったアニメ業界。

しかしスタジオχαράは不動産運用など、どうも経営のプロが入ってる感じです。少なくとも、アドバイザーはいるでしょう。これは京都アニメーションにも感じることですが。あそこも、親族に大きな企業の勤務経験者がいて、健全経営を目指してるという噂は聞きました。シン・エヴァを観て思ったのは、そういう旧来のアニメ製作体制との決別の、庵野秀明監督の強い意志。ここら辺、岡田斗司夫氏も動画配信で指摘されていましたが。

■スタジオχαράへの期待■

宮崎駿監督の弟子筋の庵野秀明監督が、東映や旧虫プロや古巣のガイナックスやスタジオ・ジブリを反面教師としつつ、旧虫プロの理想を実現したら、まさに親殺しでしょう。ちなみに、旧虫プロも社長が融資の代わりにフジテレビに権利を譲渡する契約を勝手にしており、ガイナとのトラブルに類似しています。スタジオχαράがそこを克服できるか、同じ轍を踏むか、これからの10年が勝負でしょうね。

HONDAは、本田宗一郎というカリスマと、藤沢武夫という経営の天才の、奇跡のコンビがカリスマ亡き後も組織が永続する方法論・組織論を追究しました。カリスマはいても、ナンバーツーに徹した経営のプロは得難いです。その結果としてHONDAは、社長は技術畑出身で、役員大部屋制度や縁故採用不可、社長は割と短期で退任と、日産自動車のカルロス・ゴーン社長のような独裁と暴走を防ぐ手が打たれているようです。

スタジオχαράが、アニメ界のHONDAになれれば、後進も助かるでしょうね。期待しつつ、見守りたいです。

■個人的な希望というか提案■

追記として。スタジオχαράが今後、才能集団・作家集団として機能していくなら、京都アニメーションのような文芸部門を作れたら、面白いなと思ったりします。それこそ、庵野秀明監督のシナリオのノベライズや、作品のコミカライズを、ベースにできますから。貞本義行先生の漫画版エヴァとか、愛蔵版や文庫本はスタジオχαράから出せば、話も早いでしょう。

貞本義行先生版の『ふしぎの海のナディア』とかも、コミカライズして欲しいですもん。KAエスマ文庫のようなレーベルを立ち上げて、未来の作品の原作となるような、小説や漫画の才能発掘はあっていいでしょう。もっと言えば、アニメーターの専門学校的な部門を立ち上げ、才能のある人間は採用すれば、さらに京都アニメーション的になりますが。その場合は、テレビアニメ部門の制作部も必要になりますが。

でも、京都アニメーションとスタジオχαράが給料の水準をちゃんと上げて、業界の在り方を変えないと、日本のアニメ業界には未来はないですね。ちゃんと儲かって回せる方法論。なんだかんだ言って日本のアニメ業界は、手塚治虫先生が作ったマーチャンダイジング収入によるビジネスモデルから、抜けられていないんですよね。手塚先生は、そこからの脱却を考えておられたようですが。それをやるのは庵野秀明監督の役目かも、です。

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