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三沢光晴選手の命日

◉もう、14年ですか。2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナのリングにて、三沢光晴選手が現役死。やはり、ショックですね。

ジャイアント馬場さんが亡くなったのが1999年。
ジャッキー佐藤さんも1999年。
ジャンボ鶴田さんが2000年。
ハヤブサ選手の事故が2001年。
FMW荒井社長が2002年。
冬木弘道選手が2003年。
橋本真也選手が2005年。
クリス・ベノワ選手が2007年。
ビガロ選手が2007年。
剛竜馬さんが2009年。
三沢光晴選手が2009年。
ラッシャー木村さんが2010年。
山本小鉄さんが2010年。
星野勘太郎さんが2010年。
ジョー樋口さんが2010年。

こうやって見ると、ジャイアント馬場さんという、プロレスラーの象徴でもあった方が亡くなってほぼ10年で、自分が小中高の頃に一世を風靡した選手や、好きだった選手が次々と亡くなり、あるいは関係者に不幸が続き。昭和のプロレスが急速に崩壊していった感じがします。結果的に、自分も友人もプロレス会場から足が遠のいたのですが。引退した選手の死はともかく、現役だった三沢光晴選手のリング禍は、やはり大きかったです。全日以来のファンだった知り合いも、すっかりプロレスから離れましたしね。

武藤選手としては、同期で闘魂三銃士だった橋本真也氏も18年前に亡くなり、やはり感慨深いでしょうね。公称185センチの身体は、ジャンボ鶴田選手と戦うには、あまりに小さく。それでも、天龍源一郎さんらの離脱で屋台骨が揺らいだ全日本プロレスにあって、超世代軍を率いて活性化しましたから。本来は、体格に恵まれた小橋建太選手へのつなぎの選手という意識があったのかもしれませんが、ジャンボ選手の肝炎による離脱など、屋台骨を支え続けざるを得なくなった面も。

ただ、プロレスは平成の世にインディ系が台頭し、昭和とは異なった価値観が生まれています。週刊ファイトの井上義啓編集長が「平成のデルフィンたち」と呼んで嫌った部分ですが。でも、活字プロレスを確立した井上編集長も、その弟子とも言える山本隆司(ターザン山本)編集長もGK金沢克彦編集長も、ある意味で表現者になりたかったけれどなれなかった、こじらせた人間で。悪い意味で編集者や評論家に多いタイプですね。どんなに熱く語っても、自分自身はプロレスラーに離れない、零落したカウンターカルチャーとしての和製サブカル。

テレビに依存したプロレスの在り方から、新しい在り方を模索し。選手もフリーランスが多くなり、ここらへんは虫プロ倒産後のアニメ業界にも似ますね。プロレスリング・ノアはサイバーエージェント傘下に入り、ABEMAでの露出が増え。かつてゴールデンタイムに放映されていた大衆文化のメインカルチャーにあったプロレスは、大きく変わりつつあります。たぶん、三沢光晴選手の死から、昭和のプロレスは終わって平成令和のプロレスが胎動し始めたような。そうやって、次世代に繋がっていけば。

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