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プロット・シノプシス・あらすじ・梗概

◉小説にしろ脚本にしろ漫画にしろ、言葉を扱う商売でもありますからね。言葉の正確な定義や用法に、関係者が神経質になるのは、当然と言えば当然です。孔子も論語で『必ずや名を正さんかな』と語っています。言葉の定義を正確にするという意味です。しかしながら、自分の属するまま業界でも、プロットという言葉の使い方がかなり、曖昧で恣意的なのも事実です。

こちらの指摘、たまたまTwitterに流れてきたのですが。なかなか難しい問題を、含んでいますね。せっかくなので、プロット・シノプシス・あらすじ・梗概の意味の整理のために、個人的な雑感をまとめおきますかね。

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ヘッダーはMANZEMIのロゴより、三島由紀夫も絶賛し大友克洋先生もAKIRAの題字を熱望した平田弘史先生による、最後の揮毫です。

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■まずは言葉の定義は大事■

孔子は、冒頭の言葉に続けて「名正しからざれば、すなわちげん順ならず。言順ならざれば、則ち事成らず。事成らざれば、則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば、則ち民手足をく所無し。」と語っています。正確な言葉の定義は、人間の生活の根本である、と語っているわけです。まず、プロット・シノプシス・あらすじ・梗概の、辞書的な定義は、以下のようになります。

・プロット→小説・演劇・映画などの筋・構想。
・シノプシス→梗概。演劇・映画などのあらすじ。
・あらすじ→およその筋道。あらまし。概略。
 特に、小説・演劇・映画などのだいたいの内容。梗概。
・梗概→物語などのあらすじ。あらまし。大略。

大辞泉より

こうやってみると、辞書的にはほとんど同じです。でも各種業界によって微妙に、それぞれの概念が異なります。具体的にどう違うか、以下に見て行きましょうか。まずは小説の世界から。

■フォースターのプロット論■

小説の世界では、イギリスの小説家であるエドワード・モーガン・フォースターが1927年に発表した古典的名著『小説の諸相(Aspects of the Novel)』で、プロットの定義が定義されています。このため、プロットをあらすじや梗概の意味で使うのを、嫌う人もいますね。 フォースターはプロット、物語の因果律的な意味で定義しており、三島由紀夫が国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』の解説でも引用していました。

例えば、「王妃が死んだ。三ヶ月後に国王が死んだ」では、ただの時系列の記述に過ぎません。歴史教科書の、年表みたいなものですね。フォースターはこれを〝ストーリー〟と定義しました。これが「王妃が死んだ。悲しみのあまり三ヶ月後に国王が死んだ」という、因果律=原因と結果の関係性があって、プロットと言えるわけです。私たちは同時に、国王と王妃の間にあったであろう人間的な関係性にも、想像力を働かせることが可能です。

これが「王妃が死んだ。三ヶ月後に王妃の弟の手によって、国王が死んだ」となれば、別の因果律が見えてきます。「王妃が死んだ。三ヶ月後に王妃がワインに仕込んでいた毒薬のせいで、国王が死んだ」となると、そこに王妃と国王の複雑な関係が見えてきませんか? プロットとは単なる因果関係のみならず、人間関係や事件の奥底にある、根本的な原因を表現することも可能だったりするのです。推理小説家志望なら、知っておいて損はない部分でしょう。

■プロットが生まれた理由■

そもそも、なぜプロットが必要かといえば、これは映画業界や小説業界などにおいて、プロデューサーや編集者が楽をするためです。ハリウッドの場合はシナリオの形式は、1ページが1分に相当するように書かれるフォーマットが普及しているとか。つまり、多くの映画が100分前後で収まるようになっていますから、プロデューサーが真剣にシナリオに向き合おうと思ったら、100ページ前後の脚本を読まないといけないことになります。

ところが、一本の映画が100億円では200億円だとなることもあるハリウッドでは、一攫千金を夢見て膨大な数のシナリオライター達が、自分の作品を売り込むわけです。人気のプロデューサーならば、毎日何十本もの脚本の売り込みがあるでしょう。そうなると物理的に、全部のシナリオを読み込む時間などありません。そこで「2行で説明しろ」とか「140単語でその作品を説明しろ」という形で、絞り込みが行われるわけです。

これは、小説や漫画などの世界も同じです。書いた本人は、今まで誰も書いたことがないような大傑作を生み出したつもりでも、プロデューサーや編集者その梗概を読んだだけで「また天使と死神が、雨の日に廃墟で出会う話かよ! 200回ぐらい聞いたぞ💢」となるわけです。実際に、新人漫画賞や新人小説賞などの下読みをすれば、同工異曲のワンパターンな作品を、山のように読まされる羽目になります。プロット提出というのは作家側ではなく、それを売り出す側の要請で生まれました。

■小説形式と脚本形式■

このような状況がありますから、映画業界では脚本に添えてプロット(シノプシス・あらすじ・梗概)が提出させられます。枚数はA4サイズの用紙に1枚のこともあれば、10枚のこともあり、30枚ぐらいのそこそこの分量を求められることもありと、バラバラのようですが。映画業界では小説体のプロットが、多いようです。脚本は場面の描写が主なので、小説形式の方が登場人物の感情など、具体的なイメージが掴みやすいようです。

これは漫画の原作でも、梶原一騎先生は小説形式でしたし、小池一夫先生が脚本形式でした。小説形式は作者の気持ちが漫画家に伝わりやすいのですが、状況の誤解が生まれやすい面もあります。ちばてつや先生が原作を読んで、力石徹を大男と勘違いしたように(これも諸説ありますが本題でないので割愛)。脚本形式ではこの誤解は少なくなりますが、客観的な描写のせいで熱量が伝わりづらくなる部分もあります。映画業界で、小説形式の梗概が求められるのは、たぶんこれと似た理由でしょう。

脚本は作品全体の重要な骨格ではありますが、パーツの一部であるのに対して。小説はそれ自体が、独立し完結した表現であるので。これは上下優劣の話ではなく、そういう特性があるということを理解した上で、両者を使いこなす・使い分ける必要があります。骨格にあまりたくさんの肉がつきすぎていては、肉を漬ける役の監督や演出や役者や声優の、やりがいを奪ってしまいますからね。

■編年体方式と紀伝体方式■

漫画業界だとプロットの形式は、作家ごとにバラバラです。個人的な経験だと、箇条書きで出す漫画家も多いです。箇条書きだと、文章が長くなりすぎず読みやすいというメリットもあります。大きく三つぐらいに分けて書けば序破急に、四つぐらいに分けて書けば起承転結になり、作品の流れを作者自身が整理しやすいという面はありますね。自分は箇条書きタイプのプロット・シノプシス・あらすじ・梗概は、大きく2種類に分類しています。

・話の流れを時系列で追う→編年体方式
・人物を中心にしての記述→紀伝体方式

編年体も紀伝体も、中国で歴史書を書くときの形式のことです。編年体は年表に近い形での、時系列に沿った短い事実関係の記述の仕方です。フォースターが言うところのストーリーとほぼ同じと考えていいでしょう。紀伝体というのは、司馬遷が史記を書くときに生み出した記述方法で、人物=キャラクター中心の記述方法とも言えます。端的に言えば〝誰が・どうして・どうなった〟を記述する方法です。人物の変化を中心に据えた記述方法、と言ってもいいのかもしれません。

■ファーブラとシュジェート■

他にも、小説体でも箇条書きでも通用する分類方法ですが、こんな分け方もあります。

ファーブラ→出来事を時系列で並べたもの
シュジェート→出来事を語る順に並べ直したもの

これも考えようによっては、編年体と紀伝体の記述方法の違いに似ています。ファーブラはフォースターの定義するストーリーであり、編年体方式です。では、シュジェートはどういうものかといえば。最初のフォースターの例文で例えるならば、「国王が死んだ。その三ヶ月前に王妃が亡くなった。生前の二人は喧嘩ばかりしていたが、王妃が亡くなった後に国王は、病になってほどなく逝った。極端に食が細くなり、痩せ衰えて」という感じでしょうか。これは時系列から言えば、こんな順番です。

①国王と王妃は喧嘩ばかりしていた
②王妃が亡くなった
③国王の食が極端に細くなった
④国王は痩せ衰えた
⑤国王は病気になった
⑥国王は亡くなった
⑦それは王妃の死後、三ヶ月だった

……の時系列ですが、語り口的には
 ⑥→②→⑦→①→⑤→③→④
の語られています。すべらない話が得意な人とか、巧みな話術で聴く人を引き込む力がある人というのは、この能力に優れています。順番はバラバラなのに語り口がうまく、理解しやすくなおかつ因果関係が解き明かされる面白さがあります。何よりも重要なのは、こうやって記述することによって「喧嘩ばかりしていたけれど国王は王妃を愛していた」という部分が、自然に伝わることが大事です。

ただどうしても小説や脚本の面白さの肝心要の部分とも表裏一体なので、全体を読まないと伝わりづらい点はあるかもしれません。多少は参考になりましたでしょうか? どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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