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週刊少年サンデーと新人育成と

◉週刊少年サンデーの新人育成が、ちょっと話題になっています。廃刊の危機を乗り越えての、新人育成成功とのこと。良いニュースですね。

【6年前のサンデー廃刊危機 辞表覚悟の新人育成戦略成功 「フリーレン」のマンガ大賞で“証明”】Yahoo! 

 「マンガ大賞2021」の大賞を受賞した「葬送のフリーレン」ですが、発表後に多くの記事が配信され、テレビでも特集されるなど多くの話題になりました。同作を生み出した二人の作者の才能と努力あってこそですが、同時に「週刊少年サンデー」(小学館)が2015年から取り組んだ新人育成戦略が実を結んだとも言えます。
(中略)
 サンデーの編集長に就任した市原武法さんは、掲載作の決定について「編集長である僕がただ一人で行います。僕の独断と偏見と美意識がすべてです」と言い切り、合わせて「今後の少年サンデーの運命の責任は僕一人が背負う覚悟の表明でもあります」と宣言しました。当時、市原さんに取材をさせていただきましたが、サンデーのブランドの復活という目標を掲げ、あえて宣言をすることで「退路を断った」というのは取材側からも感じました。

自分は編集者時代、新人育成に賭けていた人間でしたので、イロイロ思うことがありますので、ツラツラと駄文を。

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■作家の意見■

自分は、小学館とは縁がないですが、周囲は斉藤むねお先生や上條淳士先生、中津賢治先生と週刊少年サンデーデビュー組が、多々います。1983〜84年デビューなので、サンデーの新人育成力があった80年代頃の作家さんですが。この件に関して、90年代からゼロ年代の、冬の時代にデビューされた松田未来先生が、興味深い連投をされていましたので、保存も兼ねて以下に転載しますね。

自分も月刊少年誌の編集者時代は、雑誌生え抜きの新人育成の重要性と、読み切りで地力を高まる重要性、さらに本誌以外にも増刊を作って新人を育成するフレッシュジャンプ方式を進言したモノですが、ほとんど上には理解されませんでした。近年、週刊少年誌が月刊の増刊を持つ姿を見るに、10年から15年は早すぎたな……と、先見の明がありすぎたことを悔やみます( ´ ▽ ` )ノ

■小学館の構造的問題■

んなことは誰でも思いつくことなので、冗談はともかく。週刊少年サンデーにはそもそも、構造的な問題があります。1959年(昭和34年)3月17日に創刊されてから61年、歴代編集長が20人もいます。つまり平均3年弱で、編集長が交代しています。これは同時創刊の講談社の週刊少年マガジンの歴代編集長が、10人で有ることを思えば、編集長交代が頻繁すぎます。こうなると、編集長はお飾りの名誉職か、任期中に目先の利益を追求するようになります。

週刊少年サンデー歴代編集長
豊田亀市(1959年 - 1960年)
木下芳雄(1960年 - 1963年)
堧水尾道雄(1963年 - 1965年)
小西湧之助(1965年 - 1967年)
高柳義也(1967年 - 1969年)
木下賀雄(1969年 - 1970年43号)
渡辺静夫(1970年44号 - 1972年3・4合併号)/1年半
井上敬三(1972年5号 - 1977年46号)/5年10ヶ月
田中一喜(1976年47号 - 1984年29号)/7年8ヶ月
猪俣光一郎(1984年30号 - 1987年27号)/3年弱
熊谷玄典(1987年28号 - 1991年32号)/4年
平山隆(1991年33号 - 1994年33号)/3年
熊谷玄典(1994年34号 - 1996年33号)/2年
奥山豊彦(1996年34号 - 2000年16号)/4年8ヶ月
都築伸一郎(2000年17号 - 2001年34号)/1年4ヶ月
三上信一(2001年35号 - 2004年50・51合併号)/3年3ヶ月
林正人(2004年52号 - 2009年35号)/4年8ヶ月
縄田正樹(2009年36号 - 2012年33号)/3年
鳥光裕(2012年34号 - 2015年34号)/3年
市原武法(2015年35号 - )/6年目

あだち充先生の『タッチ』や高橋留美子先生の『うる星やつら』を抜擢し、上條淳士先生らをデビューさせた田中一喜編集長が異例の足掛け8年の長期政権で、その前の井上敬三編集長が6年弱で、サンデー全盛期を用意したことを思えば、短期短期で編集長をコロコロ変えることの問題点は、明らかでしょう。実質1968年創刊の週刊少年ジャンプが歴代11人、平均5年以上と比しても、サンデーのおかしさが目立ちます。

■名編集者でも生涯打率は2割■

さらにジャンプの場合、堀江信彦編集長の3年での更迭、高橋俊昌編集長の1年半ちょっとでの急逝という部分もありますから。週刊少年サンデーの新人育成問題が、経営の構造的問題という意味が、ご理解いただけたでしょう。編集者でもあった大塚英志氏が著書で、雑誌は創刊してから軌道に乗るまで5年掛かる、新人の育成とその生え抜きの連載が始まってヒットするまでそれぐらい掛かるから、と語っておられましたが。

これは、編集長の引き継ぎでも同じ。編集長が自分の目利きで新人作家を抜擢しても、すぐに結果は出ません。小学館のビッグコミックスピリッツなどの編集長であった長崎尚志氏も、名編集者でも生涯打率は2割と、言っておられましたが。そう簡単にヒットは出ない、運の面もあります。人事権を持つ社長以下上層部が、漫画編集部の特性を理解せず、コロコロ編集長を変えては、そりゃあ短期で結果を出そうとするなら、実績のあるベテランの引き抜きに走ります。

■鳥嶋編集長時代のジャンプ■

例えば週刊少年ジャンプ、鳥嶋和彦編集長時代の1996年から2001年は、ちょうど週刊少年マガジンに部数を抜かれた1997年から2003年の時期に被ります。結果だけ見たら、鳥嶋編集長時代は部数で首位から陥落し、ついに奪回もできませんでした。しかし無能な編集長だったかと問われると、それは違うと言えます。鳥嶋編集長時代に始まった連載陣は、代表的な作品に絞っても、以下の通りです。

96年:封神演義 遊☆戯☆王
97年:ONE PIECE 世紀末リーダー伝たけし!
98年:ホイッスル! HUNTER×HUNTER シャーマンキング
99年:NARUTO -ナルト- ヒカルの碁 テニスの王子様
00年:BLACK CAT ピューと吹く!ジャガー
01年:ボボボーボ・ボーボボ BLEACH

いかがですか? 96年の『封神演義』や『遊☆戯☆王』は前編集長の企画かもしれませんが、ゼロ年代のジャンプを支えた作品や作家のほとんどが、この6年間に集中していることがわかります。他にも、ROOKIESやI'llなども、この時期の連載開始作品です。こうやって蒔いた種が花開くのは担任後2年も経って2003年、明確な差は2005年まで待たないといけません。10年スパンというのは、一利有るのがわかります。

■サンデー迷走時代■

サンデーは1987年に熊谷編集長がトップに立つと、ジャンプのような泥臭い作品をやるといいだし、『うる星やつら』が同年8号で終了し、岡村賢二先生に『GOAL』という作品を開始させますが、ジャンプの泥臭いけれど太い芯がある作品とは似て非なるモノ。前年の86年の50号であだち充先生の『タッチ』も終了しており、二枚看板の相次ぐ終了で、旧来の読者は離れ、新しい読者も得られず、大部数減に。

こういう、自分の手柄が欲しくて、目立つ竜の頭斬りをやっちゃう編集長は、よくいます(遠い目)。ダメ作家=蜥蜴の尻尾切りなら良いんですけどね。1990年にデビューされた紅林直先生は、当時のサンデー編集長の新人冷遇を批判されていますね。1984年に『気怪』でデビューされたYUKITO名義でデビューされた木城ゆきと先生も、89年デビューの吉崎観音先生も、サンデーを去られてから芽が出ていますし。

橋本花鳥先生も、サンデーを去ってペンネームを変えてブレイク。他にも別名義で、サンデーデビュー組が四季賞で再デビューの例も、10年代に見掛けました。もっともサンデーは96年から2000年には絶頂期を迎え、200万部に乗せる躍進。コレが奥山編集長の手柄なのか、熊谷前編集長の用意したモノかは、内部にいない自分には解りません。単に『名探偵コナン』メガヒットの恩恵かもしれず。ここら辺は作家の立場で、見解も異なるでしょう。ハッキリしてるのは、2000年以降は急速に部数が墜ちていったこと。

■プロ野球との類似点■

野村克也さんが生前、今のプロ野球は監督をコロコロ変えすぎると、嘆いておられました。昔は10年はやる中で、長期的に選手を育成し、その中で後継者の監督も育てた、と。実際、大洋ホエールズとかコロコロ変える球団でした。そうなると監督は、目先の結果が欲しくて、トレードでベテランを入れ、新人も即戦力の投手を指名したがる。星野仙一氏の手法ですね。時間の掛かる捕手や、長距離砲の育成はついつい後回しに。

一方、広島東洋カープ・西武ライオンズ・福岡ダイエーホークスを育て上げたり立て直した根本陸夫さんは、新人育成・トレード・外国人を強化の軸に、先ずは自分が監督として現場を把握し、その後はフロントに転身してGM的立場で立て直すという手法で、成功しました。これ、組織再建の基本なんですけどね。ようやく、小学館がそういう手法を採り入れた、ということです。

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