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ユダヤ・キリスト教の千年王国思想と共産主義思想

◉記念すべき1000本目のnote記事です。書きかけて3年ほど、いろいろと面倒くさくて放置していたのですが、ようやく書き上げました。

共産主義思想が、ユダヤ・キリスト教の千年王国思想を焼き直した疑似科学である、Twitterの方では何度か書いてはいますが、140文字の字数制限の中では、内容がよくわからない人もいるでしょう。キリスト教文化や共産主義思想について、基礎知識が不足していたり、現代思想などに興味がないと、誤解する人もいるでしょうから、noteでまとまった解説を書き上げました。この基礎部分を理解できると、現代日本の政治的な主義主張の、けっこうな部分も理解できるでしょう。

自分もたいした知識はないので、ツギハギの入門編ですが、ザックリと理解するのには役立つでしょう。参考文献も幾つかリンクしておきましたので、より深く学びたい方は、そちらの真っ当な研究書を読んでください。また本文は随時、追加や修正を加える予定ですm(_ _)m


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■福田恆存という保守思想家■

60年安保闘争や70年安保闘争の時期、日本は共産主義思想の影響を受けた学生たちが、苛烈な反政府運動を繰り返していました。マスコミも左寄りの論調で、現在は保守系と目される読売新聞さえ、反米親中の論調でした。さらに1955年に始まったベトナム戦争の悲惨さがガンガン報道されると、アメリカ合衆国は民主主義のフリをした帝国主義国であると、〝米帝〟なんて略語が学生運動家たちの口から連日、吐かれることに。

そんな時期、日本の右派は肩身が狭く、マスコミもほとんど取り上げませんでした。ところが、ふく恆存つねあり《ふくだ・つねあり》という保守思想家──学生たちは右翼と呼んでいました──が、1954年(昭和29年)の中央公論12月号にて『平和論の進め方についての疑問』を発表し、進歩派の平和論を批判します。もちろん、左派マスコミも左派学生も、最初は無視します。批判された文化人は、福田がその前に渡米していたため、ロックフェラー財団からカネを貰ってこんな文章を書いたのだろうと、反論にもならない反論をして誤魔化しました。当時のことを、呉智英夫子もこう語っておられます。

早稲田大学で学生運動をしていた呉智英夫子や、東京大学自治委員会会長や全学連の中央執行委員も務めた西部邁氏など、後に保守派に転向した学生運動家が、福田恆存を評価した左翼たちです。なぜなら、福田恆存の論が筋が通っていて、左派はまったく反論できず歯が立たなかったのですから。逆に言えば、福田恆存に論破されているのに気付いた左派は保守派に転向し、負けを認められない・負けてることにさえ気付かない二流のインテリが、左派に残ったとも言えます。そして、ベルリンの壁崩壊・天安門事件・ソ連崩壊・北朝鮮の拉致発覚などで、左派の東大名誉教授でも二流は二流と、周知されるハメに。

左派は、福田恆存の思想を正面から論破できないからか、Wikipediaに【翻訳に対する評価】なんて項目をわざわざ設けて、翻訳の仕事の批判を載せて、間接的に貶めようとしているように見えるほどです(しかし批判内容がさらに微妙で、その程度しか批判できないのかよという苦笑モノという恥をかき)。あまりに福田恆存は論争に強すぎたため、当時の保守派論壇のボスザルであった猪木正道にさえも睨まれ、右側からも干され、孤立するほどでした。ではなぜ福田恆存は、そんなに論争に強かったのか? 本人は東大英文科卒業で、知性に疑いはないにしても……です。

■D.H.ローレンスと黙示録論■

福田の論争の強さを理解するために、補助線が必要です。デーヴィッド・ハーバート・ローレンス、長いのでD.H.ローレンス、あるいはロレンスと表記される、イギリスの小説家で詩人がいます。代表作は『チャタレイ夫人の恋人』です。日本でも、猥褻図書として発禁処分、最高裁で敗訴して絶版に(その時の裁判長が栗本慎一郎氏の父親の栗本一夫。『四畳半襖の下張事件』でも裁判長を努めます)。ローレンスは、そんなエロ小説作家ですが、亡くなる前年の1929年に、『黙示録論』を完成させています。福田恆存はコレを翻訳し、自分の思想の血肉であると評しています。

新約聖書の末尾を飾る『ヨハネ黙示録』に注目し、ユダヤ・キリスト教の問題点を明らかにしたのが、ローレンスの黙示録論です。ちなみに、神の隣人愛を説く福音書に対し、民の怨嗟を描いたのがヨハネ黙示録です。といっても、キリスト教に興味がない人は「ヨハネ黙示録ってなんですか?」状態でしょう。読んだことがある人にしても、なんだかファンタジー小説のようで、よくわからない書……というのが本音でしょう。知らない方のために引用すると、内容はこんな感じ↓です。

第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。

第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。

第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。

この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。

新約聖書 ヨハネ黙示録

■福田恆存が強かった理由■

実際に読むと、幻想的すぎて訳が解らんでしょ? これ自体は預言書(神の葉をかった、つまり神の啓示を書き記した書物の意味。未来を予測した予言書ではない)とされます。もっとも文中の「苦よもぎ」が、ウクライナ語のチェルノブイリ(チョルノーブィリ:Чорнобиль)だとされ、原発事故を予言してると、一時期話題になったこともあります。清水玲子先生の傑作『月の子 MOON CHILD』でも、モチーフになっていましたね。ただし、チェルノブイリはヨモギに似たハーブで、正確には苦艾(ニガヨモギ)ではないのですが。閑話休題それはともかく

黙示録は長らく、ヨハネ福音書を書いた使徒ヨハネの執筆とされていましたが、現在では別人とされています。つまり、ヨクワカラン人が書いたヨクワカラン書、それがヨハネ黙示録です。ローマ帝国のネロ帝のキリスト教徒迫害の時代や、ドミティアヌス帝の時代の迫害による恨みが、この書の成立の背景にあるという研究もあります。いずれにしろ、ヨハネ黙示録は内容が幻想的すぎるので、多様な解釈が可能なため、教会でもみだりに礼拝での説教に使ってはいけない……とされたとか。

現代の左翼の思想は、カール・マルクスの共産主義思想をルーツにしており、それが世俗化して、さらに薄まったモノです。後述するように、その共産主義思想のルーツが、ユダヤ・キリスト教にあるのです。福田恆存が左派との論争に強かったのは、その思想のルーツを、生みの親であるユダヤ・キリスト教の根本部分から、深く理解していたがゆえ。それを知らない左派に連戦連勝だったのは、ある意味で必然です。相手の手品の種明かしを、事前に知ってるようなモノですから。福田はさらに、推理小説の古典『ブラウン神父』シリーズの作者で、英国保守派思想の巨人ギルバート・キース・チェスタトンの影響も受けていますが、これは別枠かつ長くなるので、割愛。

■ユダヤ・キリスト教の道徳■

では、ローレンスは、この黙示録をどう分析したか? ローレンスの分析は実は、ドイツの思想家フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜学』や『反キリスト者』などの、先行するキリスト教批判を意識して書かれています。ニーチェが、キリスト教の何を批判してるかというと、なかなかに難しい問題なのですが。竹田青嗣先生が著書『ニーチェ入門』で例え話にしている部分を、パクって説明すると、以下のようになります。まず、新約聖書に「ラクダの喩え」というエピソードがあります。

マタイによる福音書第19章16節~30節

すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

新約聖書 マタイ福音書

つまりナザレのイエスは、殺人・姦淫・窃盗・偽証の悪事をしないことや父母への孝悌や隣人愛という重要問題と、金や財産を持つことの問題を、同列に扱ってる訳です。……これ、おかしくないですか? 言動と蓄財は、同列に置けるはずも無し。真面目にコツコツ働いたら、自然に貯まるカネもあるはずです。でも、蓄財自体が悪いという。ピンとこない人に、武田鉄矢さんの母親の武田イクさんの「他人を騙すぐらいなら騙される方がいい」という言葉を補助線にして、説明しますね。ちょっと聞くと、この武田イクさんの言葉は、ヨサゲに聞こえますよね。でも、本当にそうでしょうか? 並べて比較してみます。

①他人を騙さないし、騙されない ←ベスト
他人を騙さないが、騙される ←武田イクさんの言葉
③他人を騙すが、騙されない ←ベター?
④他人を騙すし、騙される ←ワースト

こうやって組み合わせを並べると、①の騙さず騙されずがベストで、④の騙し騙されがワーストだというのは、なんとなく見えませんか? そして、②の騙さないが騙されるは、良いとこセカンドベスト、次善でしかない事も。でも私たちは、③の騙すが騙されない人間はしたたかで悪辣で、②の騙されるが騙さない人間を、何か善良な人間で、上と認識します。でもそれは、正しいのでしょうか? 前者は自分に被害をもたらす可能性があるが、後者はもたらさないという、とても利己的な理由から、そう言ってるの過ぎないのでは?

しかし個人的な利害を考えなければ、例えば強く優秀な遺伝子をす動物の本能を是とするなら、③の騙すが騙されない知恵を持つ方が、②の騙されても騙さないよりも、マシって判断になりませんか? だって、そっちの方が生物として、より生き残りやすいのですから。ニーチェのキリスト教批判のキモも、実はここです。良いとこセカンドベストでしかない価値観を、弱者の側のご都合である②を神の道徳とし、固定化したのがユダヤ・キリスト教である──という批判です。本当はもっと細部はイロイロと複雑で難解なのですが、単純化してザックリ言えば、こんな感じになります。

■内に隠された過剰な復讐心■

コレは、キリスト教の文化が奥深いところで骨絡みになっている欧米の価値観からすれば、大変に危険な批判です。自分たちが神様の正しい教えだと思っていたものが、「弱者の自己肯定の論理を、道徳にしちゃっただけだよ」と、指摘されたのですから。そしてD.H.ローレンスは、このニーチェの議論をさらに進めて、キリスト教ってのは弱者が日々を生きるための心の拠り所となる慎ましやかな宗教ですらなくて、実は強者に対するドス黒い復讐心を内に宿した、とても危険な宗教なんだよ、と指摘したのです。その証拠が、ヨハネ黙示録なんだよ、と。それが『黙示録論』の本論です。

幻想的な表現に偽装していますが、ヨハネ黙示録が言いたいのは、最後の審判で異教徒どもは全員皆殺しにされて、全知全能の唯一絶対神ヤハウェ(キリスト教だとエホバ、イスラム教ならアッラー)を信仰している自分たち〝だけ〟が助かって、至福千年の神の王国に入れるヒャッハー、という考えです。こういう考えを『千年王国思想』と呼びます。神学的には、前千年王国とか後千年王国とか、ゴチャゴチャゴチャゴチャ…ど〜うでもいい枝葉の論争がありますが。そんな神学論争は無視して、ザックリ言うとこうなってしまいます。驚きましたか?

この攻撃性や復讐心は、キリスト教がユダヤ教から受け継いだ、重要な部分です。なぜそんなモノが生まれたのか? ユダヤ人は国を滅ぼされ、バビロン捕囚(紀元前597年〜538年)の憂き目に遭います。故郷から異境の地に連れてこられ数十年、代を重ねるとどんどん現地の文化や風俗に馴染み、国際結婚も増えちゃって、そのままではユダヤ民族消滅の危機に見舞われます。ユダヤ民族の古老たちは、このままでは民族消滅の危機を感じて、より強い世界観を持つ宗教を紐帯(ちゅうたい)とした、新たな内部団結を図る必要があったわけです。これが、左翼の強い党派性のルーツです。

■ヨシュア記と聖絶の逸話■

現実のユダヤ人は、国を失った奴隷同然の身分ですから。その現実に打ちのめされ、世を儚んで自殺しても、あるいはバビロンに同化してバビロン人としてのアイデンティティを獲得しても、不思議ではない状況でした。だからこそ、現在の苦しみは神に信仰心を試されてる試練である、という考えが生まれます。そう考えれば・未来に希望を繋いでいれば、辛い現実にも耐えられるのが人間です。「慣れし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」で知られる名曲『流浪の民』の、一節の如く。また格闘家のホリオン・グレイシーも言っています。砂漠で遭難しても、10日後に助けが必ず来ると判っていれば人間は耐えられるが、いつ助けが来るか判らないと不安で三日も持たない、と。

ユダヤ人は辛い現実に耐えるために、選民思想と一神教としての民族宗教と神による救済の教えを、強化します。その「民族の枠を取っ払ったのがキリスト教だ、民族宗教を超えた世界宗教だ、素晴らしい!」と、キリスト教徒は自画自賛しますが……果たしてそうでしょうか? ニーチェとローレンスは、そうではないと指摘したのです。だってキリスト教だって、弱者が辛い現実に耐えるための宗教ではあるけれど、「最終的に異教徒と和解して仲良く共存共栄しましょうね」って穏やかな宗教ではないのですから、当然ですよね。

この、ユダヤ教の攻撃性が顕著なのが、旧約聖書のヨシュア記です。ユダヤ・キリスト教の関係者が隠したがるのが、このヨシュア記。ユダヤ民族の指導者ヨシュアに率いられたユダヤ人が、神がユダヤ民族に与えると約束したカナンの地で、先住民族を武力制圧する歴史を記したのが、このヨシュア記です。神が「あいつら異教徒だから皆殺しにしちゃってOK」と命じたら、それに疑いを挟むのは、むしろ不信心者になります。全知全能の神の前には、人間の知恵など小賢しいというのが、旧約聖書を貫いている思想です。聖書では、愛する息子を生け贄に差し出せと神に言われれば、黙って差し出すのが良き信仰者ですから。いわんや、異教徒をや。殺しても良心は痛みません。

■選民思想から選宗教思想へ■

アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の中で、アスカがシンジに「これはけして崩れることのないジェリコの壁!」と言うシーンがありますが。英語でジェリコ、ヘブライ語ではエリコとは、パレスチナの死海の北西部にあった都市の名前です。発掘調査によれば、洪水から街を守るため、城壁で囲まれた城塞都市だったようです。ヨシュア記では、民にヨシュアが命じて一斉に角笛(ラッパ)を吹かせると、城壁が崩れ落ちたとされます。神の存在を証明する奇跡と、ユダヤ人のパレスチナ征服の正統性を示す、記述です。

先に引用したヨハネ黙示録の「第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。」というのは、ヨシュア記のこの記述をベースにしています。神はヨシュアにカナンの地をヨシュアに与えることを約束し、「我なんぢに命ぜしにあらずや心を強くしかついさめ なんじすべところにて汝の神 主ともありせばおそるるなかれ戦慄せんりつなかれ」と告げます。つまり神は「女子供関係なく、皆殺しにしろ躊躇するな怖がるな」と言ってるわけです。これを〝聖絶〟と呼びます。ここに左派の攻撃性と党派性の、ルーツを見る人もいるでしょう。また西欧列強の植民地支配と先住民への苛烈な仕打ちのルーツを、見る人もいるでしょう。そして現在にも続く、パレスチナ問題のルーツでもあります。

七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。
この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った使者たちをかくまったからである。
また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。
ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。
そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。
そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。

旧約聖書 ヨシュア記

異教徒は皆殺しが前提。いや、異教徒の飼ってる家畜さえ皆殺し(実際はヨシュアは斥候を匿った娼婦ラハブの一族は命乞いして許されていますが)。広河隆一氏や園子温監督のスキャンダルには沈黙する、現代リベラルの党派性の、ルーツです。ユダヤ教を信じればユダヤ民族であり、ユダヤ民族であれば善人も悪人も無条件に救われる、選民思想の宗教です。事実、ユダヤ人は遺伝子的にはバラバラで、いわゆる遺伝学上の民族とは言えません(ハザール帝国やアシュケナージの問題は、脇道に逸れすぎるので割愛)。ユダヤ教を棄教したり改宗することは、考慮されていません。ユダヤ民族といっても、善い人もいれば悪い人もいるけれど、関係なく救われる。これが選民思想の本質です。これをキリスト教は、民族に関係なく救われるとしたのですが。善人も悪人も異教徒皆殺しの教義は、そのままです。ユダヤ教の選民思想から、キリスト教の選宗教思想へのシフトでも。でも党派性の本質は、同じなのです。

■マルクスのコンプレックス■

そして、この選民思想と最後の審判と千年王国思想を、無意識に焼き直したのが、カール・マルクスの共産主義思想だったのです。マルクスという人は、ユダヤ人です。日本人には想像もつきませんが、欧米人のユダヤ人を嫌うことの激しさは、筆舌に尽くしがたいようで。故郷の国を失った流浪の民ですから、ユダヤ人の付ける職業は高利貸しや売春宿の経営、げんなどなど、賤業とされる職業が多いです。中世ヨーロッパでは、市場で物を買うにも、ユダヤ人は差別されたわけで。

数学者のピーター・フランクルさんもユダヤ人ですが、日本にはユダヤ人差別がないから良いと語られます。日本人から見たら、世界的な数学者で、何カ国語もペラペラで、ジャグラーとしてもプロ級と、とっても凄い人というイメージしかないのですが……。欧米のユダヤ人差別の激しさが、ちょっと垣間見えますね。逆に、差別されてるからこそユダヤ人は蓄財に励み、経済的にも成功するわけですが。でもコレが、経済的に恵まれない層からの、更なる嫉妬と憎悪を生むのです。シェイクスピアの戯曲『ベニスの商人』に描かれたように。

ちなみに、英語で「ユダヤ人の母親」という言葉には、教育ママというニュアンスがあるそうです。せっかく蓄財しても、難癖つけられて取り上げられたり、最悪は殺されたりする差別に生きたユダヤ人。ゆえに蓄財自体ではなく、教育という脳ミソに投資し、知識と学問という蓄財をするわけです。カネは奪えても、知力は奪えないのですから。金品や財産よりも、情報を重視するユダヤ人の戦略も、根っこは同じです。アインシュタインをはじめ、ノーベル賞受賞学者を他民族より突出して多く受賞する、理由のひとつでもあります。ナタリー・ポートマンやマーティ・フリードマンのように、数ヵ国語がペラペラというユダヤ人は、珍しくないようで。

■カール・マルクスの背景■

マルクスは、今よりもっとユダヤ人差別が酷かった時代(19世紀初頭)に、生まれ育ちます。ただし、彼の家系は富豪のロスチャイルド家の縁戚で、裕福な家庭に生まれます。しかも代々のユダヤ教のラビ(宗教的指導者であり学者でもあるような存在)の家でありながら、当時の社会情勢もあって、弁護士の父親がプロテスタントに改宗します。つまりユダヤ教を棄教した家系に生まれたわけです。宗教的に甘い多神教の日本人にはピンときませんが、一神教では棄教はすなわち、死刑に値する大罪。

後に世界的メーカーのフィリップスになる一族の母親は、このときには改宗しなかったので、生まれた子供達はユダヤ教徒として育てられるのですが。マルクスが6歳の時に、母親ともどもプロテスタントに改宗します。でも、改宗してもユダヤ人として、やっぱり差別されます。さらに、キリスト教に改宗しちゃったので、同じユダヤ人コミュニティからも、良くは思われなかったでしょう。ユダヤ人に生まれたのも、棄教改宗したのも、マルクスの責任ではないのに、二重の差別を受ける状況にあったわけです。

彼がどんなに冷静客観な思考を標榜しても、そこには無意識に・無自覚に、宗教の影響が侵入するのは必然です。日本人の言霊思想と同じで、無自覚だからこそ、さらに問題なのですが……。しかも、父母の改宗時期のズレなど、家庭内の葛藤やら対立やら、イロイロと問題もあったのが推測できます。ユダヤ人は、家父長制が強い割に、母親がユダヤ人であることをユダヤ人の条件にするように、母系的でもあります。ここら辺は、日本に帰化した在日コリアンと、在日コミュニティとの対立問題など、現代だってイロイロありますから。親族に反社がいたせいで帰化申請を断られて、その逆恨みから日本を執拗に批判する在日コリアンも、現実にはいますしね。

■ダーウィンの進化論の登場■

マルクスは1818年に生まれ、1883年に亡くなります。放蕩者だったマルクスは、大学に残って教授になりたかったのですが、コレに挫折。ジャーナリストとなるのですが、こちらも執筆していた雑誌が廃刊になり挫折。もっとも本人は、むしろ廃刊にホッとしたようですが。このマルクスとほぼ同時代人に、チャールズ・ダーウィンがいます。ダーウィンは1809年に生まれて1882年に亡くなっておりますから、正にマルクスの同時代人です。イギリスの裕福な家庭に生まれ、でも医者になるのも神学者になるのも挫折し、若い頃は迷走した点で、この二人は似ています。

しかしダーウィンは、自然史への興味からビーグル号の調査に加わり、地理学者になり、名声を得ます。そしてキリスト教の価値観が今とは比べものにならないぐらい強かった1859年に『種の起源』を発表し、大センセーショナルを巻き起こします。何しろダーウィン自身が、殺人を告白するぐらいの覚悟で書いたと評した、大著です。聖書の記述は科学的ではなく、人類は神が自身に似せて創った特別な存在でもなく、猿から進化したという進化論は、当時の欧米人には受け容れがたかったようで。大論争が起きます。

そもそも欧州には猿がいないので、仕方がないですね。北限の猿として有名な、下北半島の猿ですが。南仏のニースって青森や秋田県に近いんですよね。つまり、北海道や樺太の緯度がほとんどの、寒い欧州には猿がいないので、身近な存在でもないのです。そりゃもう、南国の珍しい動物ぐらいに思ってたのが人類の先祖とか、価値観がひっくり返るわけで。地動説以上のショック。でも、ダーウィンの進化論は、説得力のある傍証(カワラバトの変異の研究など)も多く、さらに1860年に恐竜と鳥類の特徴が混在する始祖鳥の化石なども見つかり。さらにさらに、馬などの進化の途中の中間的な化石が発見され、学問として認めざるを得ない強固な学説になります。こうして昭和天皇が、ダーウィンの胸像を御所内の研究室に置くほど、偉大な存在になります。

■選宗思想から選共産思想へ■

ユダヤ人としてのアイデンティティに、複雑な揺らぎがあったマルクスにとって、『種の起源』はインパクトあったでしょうね。自分の人生に、影のように付きまとって苦しめてきた宗教が、実は非科学的な作り話だと、間接的に宣言したわけですから。救われた気がしたでしょう。で、進化論を社会にも当てはめて、進化のように社会が変わり、理想の社会がくることを、科学的に証明しようと、マルクスなりの仮説を立てたわけです。資本主義が高度に発達した地域で、共産主義革命が起きて、共産党一党独裁の、労働者の理想社会がくるはず、との仮説を。それが、共産主義思想。

でもダーウィンは、もっとも環境に適応できたモノが生き残るは〝適者生存〟を言ったのにも関わらず、マルクスはこれを優れたモノが生き残る〝優勝劣敗〟の、社会進化論的にとらえちゃったのです。優れているから生き残るわけでも、進化が正しいわけでもないのに……。唯物史観の着想のヒントになったと、マルクスは著書の初版をダーウィンに献本したそうですが。私淑した師の学説を誤解した、不肖の弟子です。現実には共産主義革命はイギリスやフランスなど、資本主義が発達した地域ではなく、遅れたロシアで起きた時点で、学問としてどうよ、という話です。だって、仮説が外れちゃってるんですから。科学的ではない。実際、マルクスがやったのは、無意識なユダヤ・キリスト教の千年王国思想思想の焼き直しでした。

預言者の指導を共産党の指導に、最後の審判を革命に、千年王国思想を共産党一党独裁に置き換えた、科学のフリをした疑似科学が、共産主義思想の正体です。むしろ枝葉を刈り取って、純粋化された宗教です。実際、スターリンのソビエト連邦や毛沢東の中華人民共和国、金日成の北朝鮮、ポル・ポトのカンボジアなどなど、多くの国や地域で、共産主義の敵であると見做された資本家や知識階級、金持ちは弾圧されて虐殺されたわけで。これが、異教徒皆殺しの教義を受け継いだ、共産主義の怖さです。日本でも、連合赤軍の総括リンチ殺人事件や、セクトの殺し合いがありましたよね?

つまり、選民族思想が選宗教思想になり、さらに選共産主義思想になっただけです。これに対する根本的な批判も無しに、「今こそ共産主義を見直そう!」とか叫ぶのは、根本部分を理解していない二流のインテリの、寝言です。バブルの前後から「心の時代」とか「宗教の時代」とか保守系から声が上がったのと、なぁ〜んにも本質は違いません。それだったら、まだしも数千年の風雪に耐えてきた本物の宗教の方が、科学のフリをした疑似科学より、遙かにマシです。危険性はありますが、世俗と妥協して、角もだいぶ取れていますしね。カトリックはリベラルなフランシスコ教皇の登場による、世俗との折り合いを付ける動きもありますしね。

■まとめ:現在への影響力■

現代のリベラル思想って、このマルクスの共産主義思想が世俗化して、さらに薄まったようなモノ。つまり鬼子=親に似ない子どもです。でも、一見すると別物のように見ながら、遺伝子はしっかり受け継がれています。結果、禁欲的なキリスト教の道徳から女性を解放するはずのフェミニズムが、キリスト教婦人矯風会と同じような「フシダラざます!」と言い募ったり。キリスト教左派がリベラル思想や社会主義や共産党と接近したりという、奇妙な現象が起きます。

でも、カール・マルクスの共産主義思想が実は、新しい革袋に詰められた古いワインだったと。ユダヤ・キリスト教の直系の子孫だったと。理解できれば、少しも不思議ではありません。有神論とか無神論とか、唯物史観とか、表層の言葉に誤魔化されてはいけません。親に似ぬ鬼子でも、遺伝子は脈々と受け継がれており、ときどきそれが隔世遺伝のように出現するものです。このユダヤ・キリスト教の構造を抽出すると、だいたいこんな感じになりますかね。

・最後の審判由来の、劇的な変化への渇望
・強者へのルサンチマン由来の、過剰な復讐
・聖書由来の、教条主義と自己正当化
・民族宗教由来の、純血主義的志向
・選民思想由来の、党派性と排他性
・千年王国思想由来の、純血主義と多様性の排除

劇的な変化への渇望は、漸進的変化を嫌います。共産主義が斬新的な変化の社会主義を嫌う理由です。復讐の正当化は、過剰な報復を容認します。しかし近代法は、ハンムラビ法典由来の復讐法をベースにしており、この復讐は等価が原則です。これを同害報復(タリオの法)と呼びます。目を潰したら目を潰す刑罰は認めても、命を取るような過剰な復讐の禁止が、その本質です。つまり、聖書の過剰報復の精神と、対立します。聖書は、神の啓示や預言者の言行、立法の根拠、民族の世界観などを含みますが、それを信者が疑うことを許さない教条主義と、表裏一体なのです。共産党が、党首公選制を提案しただけの党員を、最も重い除名処分にした理由です。

こうやって見ると、共産主義もナチズムも国粋主義もANTIFAも、あるいは反捕鯨や反犬肉食などのエスノセントリズム(自文化優位主義)も、主義主張は異なって見えても、実は似たような構造を持っているのが、わかりますよね? というか、どうも人類の心の奥底に、こういう排他性や自分だけの正義を実現したい、倍返し以上をしたい過剰報復というドス黒い心性は、常にあるのでしょう。ユダヤ・キリスト教は、それを解放する理論武装を、与えたトリガーの役割なだけ……なのかもしれません。

■追記■

Twitterで日頃から勉強になるツイートをされている小森健太朗先生から、バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』の中で、キリスト教とマルクス主義の同型性を指摘されているとの、貴重な意見を賜りました。自分は渋谷の腐れナンパ大学で、キリスト教概論が必修だった頃の浅い知識ぐらいがベースで、ツギハギの俗論ですので、こういうちゃんとした学問の場からの指摘は、ありがたいですね。転載しておきますm(_ _)m

簡単に書き出すと、こんな感じになるということですね。

・神(全知全能の唯一神) ⇔ 唯物論的弁証法
・救世主(メシア) ⇔ マルクス
・神に選ばれた者たち ⇔ プロレタリア階級
・教会(集会・会衆) ⇔ 共産党
・キリスト再臨(最後の審判) ⇔ 革命
・至福千年(の神の王国)  ⇔ 共産主義社会
・地獄(ゲヘンナ)  ⇔ 資本家の業火 

こうやって見ると、マルクスが改宗したプロテスタントよりも、カトリックの世界観に近いような気もしますね。
 無謬で完璧な共産党が天下を獲る
 →他の政党は不要になる
 →共産党一党独裁が完成
 →永遠の平衡状態に

……という発想自体が、まさにユダヤ・キリスト教の千年王国思想と多様性排除的な、世界観なんですよね。ちなみにフランス革命も、キリスト教の神を否定しながら、理性神なる存在を祭壇に祀ったそうです。これも無神論の共産主義思想と、構造は同じなんですねぇ。神を否定したら、神モドキを崇めるという、人間の根本的な本質を見る気がします。

繰り返しますが、それならば数千年の風雪に耐えてきた本物の宗教の方が、科学のフリをした疑似科学より、遙かにマシです。そんなキリスト教文化の欧米で、仏教が一部に注目されるのも、必然ではあります。フロイトやユングより、1500年ほど早く無意識の構造を認識した唯識論(玄奘三蔵が国禁を犯してまでインドに学びに行った思想)を打ち出し、教祖自体は2500年ほど前に出現したという点において、カウンターカルチャーになり得るのですから。

………ぐえ、バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』高い! まぁ、区の図書館とか利用して、おいおい読んでいきますかね。そういえば、聖地エルサレムでは、自分自身がイエス・キリストになった気になって、コスプレして十字架を背負って歩く人が、チョイチョイいるらしいですけど。けっきょくマルクスって、自分がキリストや救世主になりたい願望を抱えて、こじらせた中二病の人だったんですかねぇ? スケールのデカい伊集院光さん? まぁ、欧米には良くいるタイプなんですけれど。自分こそ最後の預言者だ救世主だと言い出して、新興宗教を起こす人は。小さな集団に留まるか、人民院事件みたいになりがちですが。

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