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半島の前方後円墳

◉朝鮮半島に前方後円墳があるのは、古代史好きの人間には割と常識なのですが。一般にはあまり知られていませんね。一時期は、前方後円墳は韓国が発祥で、それが日本に伝わった、つまり日本の皇室のルーツは朝鮮半島だという説に使えそうな時期には、喧伝されたんですけどね。発掘調査で、日本の前方後円墳よりも明らかに新しいということがわかって、言及自体が避けられるように。

【朝鮮半島にある前方後円墳の謎 「空白の4世紀」を解明する手がかりか!?】歴史人

前方後円墳は日本独特の墳形だと断定されている。しかし、実は海を渡った先にも前方後円墳があったのだ。それはどこに? なぜ造られたのだろうか?

■海を隔てて存在する前方後円墳の謎
 さて今回はわからないことの方が多いし、慎重にするべきお話になります。それは、歴史的に密接なつながりがないわけがない現在の大韓民国(韓国)の方と日本人の、感じ方や考え方を刺激する可能性があるからです。私は純粋に歴史学的な話しかしませんが、中には気分を害される方や短絡的に結論する方がいらっしゃるかもしれませんので、あらかじめそういうつもりは全くないということを述べておきます。

 朝鮮半島の南西部に栄山江(ヨンサンガン)という大河の流域地域があります。ここに現在のところ認められる前方後円墳形の墳墓が14基前後あるそうです。一時韓国では、「前方後円墳も韓国由来の墳墓だ」と話題になりましたが、考古学的には日本列島で前方後円墳が出現した後の時代のものであることが判明して、そういう話はなくなりました。

https://www.rekishijin.com/34131

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、さきたま古墳公園の稲荷山古墳だそうです。鉄剣銘が出てきた前方後円墳ですね。

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■皇国史観への反動?■

なぜ、言及されなくなったかといえば。日本独自の墳墓の形式である前方後円墳が、朝鮮半島南部に存在するとなると、任那日本府の存在の証拠になってしまうからです。これは、邪馬台国九州説を取ると神武天皇の東征神話に何らかのが史実反映されていることを間接的に認めることになるので、京大学派が纏向遺跡の箸墓古墳が卑弥呼の墓説に固執するのとも似ています。

任那という言葉自体は当時はなかったにしても、前方後円墳が半島南部に造営される程度には、倭国の王権の強い影響があったことを示します。これは、高句麗好太王碑の内容とも、中華の史書とも、一致するのですが。どうにも日本の史学界には、戦前の皇国史観への迎合の反動のためか、日本書紀などの記述を否定しようと、躍起になっている面があります。でもそれ、ベクトルが違うだけですよね?

 この古墳が造営された時期は4世紀後半から5世紀のものが主流であろうと推測されているそうですが、それならまさにわが国の「謎の世紀」にあたります。国内のことがよくわからないのに朝鮮半島の状況がわかるわけもありませんが、この栄山江流域の埋葬文化を研究すると、倭国北九州方面とのかかわりや融合が感じられますし、副葬品などは百済とのかかわりもあるようです。

でも西暦414年に建立された高句麗好太王碑には「任那加羅」の文字が見えますし、また、『隋書』や5世紀末に完成した『宋書』においても、任那と加羅と、別の国として記述されていますし。629年に完成した『梁書』には任那と伽羅と記述されていますから。任那日本府という用語の否定で、任那と呼ばれた倭人の影響力が強かった地域を、指定するのは難しそうです。

■半島南部は倭人の国■

実際、朝鮮半島南部の弁韓と呼ばれた南方地域は、小国家の連合のような地域で。伽耶とか加羅とか呼ばれていて。強大な北方の扶余系遊牧民国家の高句麗と、同じく扶余系の西の百済、新興で南方系と北方系の文化が融合した東の新羅と、バラバラだったわけで。平地が意外に少ない半島では、陸路が山がちで意外と侵略しづらい面もあるんですよね。

そもそも魏志韓伝の記述でも「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とあり、半島の帯方郡の南に韓の地があり、東西は海で南は倭国と接している、と記述されています。倭国が九州にあったのならば東西南が海だと記述するでしょう。つまり、半島南部にすでに倭国の勢力があったんですね。実際、釜山から中耳骨に変形がある、縄文時代の人骨が出土しています。

これは潜水漁撈(海人・海女)をする人間特有の 変形で、日本では 九州や静岡などの縄文人に広く見られるそうです。魏志倭人伝に和人は 素潜りをして魚を捕らえるという記述とも一致しますし、潜水漁撈自体が暖かい 南方からの伝播した文化です。韓国の済州島にも海女の文化が残っていますが、日本は九州から伊勢志摩、千葉に岩手と、全国に見られる 文化です。

■半島南部で文化交流■

さらに『後漢書』東夷伝にも、「馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。」と具体的な記述があり、百済のあった馬韓の南方に倭国があり、弁辰の南に倭国があると記述しています。前方後円墳が多くある全羅南道は、まさに百済のあった馬韓の南部ですから。

弁韓の中心地は現在の慶尚南道ですから、そう考えるとかなり広範囲に渡る倭人の勢力圏があったことが伺われます。トルコのイスタンブールがボスポラス海峡を跨いでいるように、あるいは ジャンヌダルクが活躍した時代まではイギリス国王がドーバー海峡を挟んでフランスに領地を有していたように。関東南部に倭人がいて一定の勢力を持っていたと考えるのは、別に不思議ではありません。

一つは墳形で、時代にもよりますが、現地固有の墳形は高塚式といって方形の土饅頭的墳墓に多数の埋葬を行い、どんどん広げていくという文化です。葺石(ふきいし)や埴輪(はにわ)は無いのが基本ですが、中には葺石のある墳墓や現地で生産した倭の文化であるはずの埴輪が発見される墳墓もあります。現地の前方後円墳には周濠もあるのですが、倭国式の全周濠ではなく、部分的に区切って濠(ほり)を造るという朝鮮式の蚕型周溝です。倭国文化と現地の栄山江文化の融合が見られるわけです。

これは韓国人も日本の歴史学会も勘違いというか思い込みがあるようですが。朝鮮半島というのは北方はむしろ 遼河文明や遊牧民族の文化があり、半島部分はむしろ 僻地だったわけで。そして日本列島は、現在の浙江省 あたりの長江文明の影響と、福建省 や台湾のあたりから発症したポリネシア系文化の影響が大きく。朝鮮半島南部はその2つの文化が融合する地域だったという点です。

■環日本海交易圏とは■

戦前の広告主間と大東亜共栄圏の反動から、日本の文化は全て大陸や半島から伝わったものだという考え方が、よくありますが。それは現在の国境や文化から見た考え方で。実際には 7000年ほど前から新潟の糸魚川の翡翠が、日本列島内はもちろん半島や大陸にも輸出されており。環日本海経済圏とても呼ぶべき交易圏があったわけで。近年の研究では、小豆が日本から大陸へ伝わった可能性があります。

しかしゲノム解析によって,赤飯やあんこに使われるアズキが縄文時代の日本列島で作物に変化し,アジアの大陸地域へ広まった作物であることが明らかになった。この研究を行った,国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)上級研究員の内藤健に話を聞いた。

https://www.nikkei-science.com/202402_055.html

もっと言えば、世界最古の漆を用いた漆器は日本から出土しており、なんと9000年ほど昔の北海道から。漆の木は九州や東南アジアなどに自生するように、本来は南方系の植物なんですよね。もっと古い漆器が、九州などから出土する可能性もあります。漆器も昔は、大陸から伝播した後されましたが。最高級の木材であるヒノキが、日本列島と台湾にしか分布しないように。

上記noteでも書いていますが、島国の日本は固有種が多く、また黒曜石や琥珀、珊瑚、真珠など、鉱物や貴重な宝石が産出する場所です。大陸から日本だけではなく、日本から大陸へ伝播した鉱物や植物は、多いと考えられます。戦前の皇国史観が、イデオロギーにとらわれた非科学的なものであったように、戦後の歴史学もまた、現在の政治に影響をされたものであるように思います。

朝日新聞が嫌いなエビデンスが、ないという意味で同じ穴の狢に思います。

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