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縄文人と渡来人

◉日経サイエンス2024年2月号に掲載された、縄文人遺伝子についての記事が面白かったので、2023年最後のnoteとして、こちらの話題をアップしますかね。

【縄文人の痕跡を現代人に探る ゲノム科学で迫る先史時代】日経新聞

かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。

縄文人は渡来人が来るまでの間、1万年以上も他の人類集団の流入がないまま孤立して暮らしていた。この間に、縄文人のゲノムには縄文人特異的な変異が蓄積したと考えられる。研究チームは、現代の日本人集団が持つ特異的な変異の中から、より古い時代に生じた変異を特定し、縄文人由来の変異を遺伝学的に絞り込む解析手法を開発した。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC223660S3A221C2000000/

ヘッダーはGoogle Mapのスクリーンショットより、東アジアの地図です。

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■渡来人はどのルート?■

資料的価値が高いので、この図も転載。興味深い研究ですが、この色分け地図を見っるとどうも渡来人集団、半島経由して九州から北上という感じではなく、北陸から南下して紀伊半島を抜けて四国に至ったのか。あるいは黒潮に乗って、福建省や浙江省辺りから北上し、四国から紀伊半島に至って福井へ抜けたのか、どっちかという感じがしますね。半島を経由したなら、福岡とかが最も色が薄く、瀬戸内海を北上するに従って緑色が濃くなるはずですから。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC223660S3A221C2000000/

そこで思い出したのが、記紀神話の八岐大蛇の伝承です。あれって正確には、越の八岐大蛇なんですね。越前越後などの、越の地方から出雲にやって来る大蛇。つまり北信越地域に、大陸由来の生け贄を狩る渡来系農耕文化が存在していて、これが殷王朝における生贄専用の部族であった羌族のように、島根のあたりの文化圏に人身御供を供出させていた可能性を感じます。ここらへんは、永久保貴一先生の受け売りですが。継体天皇の本拠地の越前にも連なる、勢力があった可能性。

福井県の若狭湾には、加羅国王の息子の都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトが出雲国を経て、越の笥飯浦に至ったという伝承もあります。これが敦賀の地名の由来とされます。長野県の諏訪神社の祭神である建御名方神も、国譲り神話では出雲の大国主命の息子で、天孫族の建御雷神との戦いに敗れ、諏訪まで逃げてきたという伝承があります。どうも、環日本海交易圏とでも呼ぶべき交流圏が、古くからあった可能性を感じます。糸魚川の翡翠や各地の黒曜石は、交易に使われていましたし。

■皇室は半島ルーツか?■

多紐細文鏡を、半島の鏡と強調する人間もいますが、元は紀元前六世紀頃の遼寧省の辺りの文化ですから。日本でも沿海州でも出土していて、紀元前6200年頃からある遼河文明の流れをくむ、夏家店上層文化の文明圏と交易圏が、日本海周辺にあった可能性を示します。日本海というのは、古代人でも丸木舟で渡れる程度の海ですから。そう言えば、吉武高木遺跡を持ち出して、日本の皇室が半島由来であるかのようなことを、匂わせていますが。硬玉製の勾玉の、意味分かってるんですかね? 

玉=翡翠には硬玉(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)の2種類があります。見た目はよく似てるんですが、全く別の鉱石です。軟玉は中国の天山山脈など、アジア各地で採れるのですが、硬玉はかつては新潟県糸魚川とビルマなどでしか産出しない、希少なものです。台湾の故宮博物院所蔵の至宝・翠玉白菜も、ビルマ産の硬玉です。皇居には剣璽、つまり剣=草薙剣と玉璽=八尺瓊勾玉が安置されてるように、もともと三種の神器は二種だった背つもりますしね。皇居の三種の神器は八尺瓊勾玉だけが本物で、草薙剣と八咫鏡はレプリカです。本体は熱田神宮と伊勢神宮に。皇室の象徴は八尺瓊勾玉。

ごくごく一部の日本人にとっては、
ものすごく都合が悪い歴史的事実

https://x.com/M16A_hayabusa/status/1730550052626829820?s=20

画像も転載しますね。

つまり福岡の王権に新潟県の硬玉が伝わってるわけで、広範囲の交易が伺えます。糸魚川の硬玉の翡翠の交易は、約7000年前の縄文時代前期後葉まで遡ることが可能です。世界最古の翡翠交易文化かも、という指摘さえあります。糸魚川の翡翠は、島根の出雲大社の境内はもちろん、青森県の三内丸山遺跡からも、発見されています。三内丸山遺跡は約5900年前〜4200年前の遺跡ですから。「ああん? 2200〜1900年ぐらい前の、半島の鏡がなんだって?」という話です。

■遼河文明の末裔と日本■

ちなみに多鈕細文鏡は、紀元前6世紀頃に遼寧省付近で発祥し、半島では紀元前2世紀から1世紀に作られました。ロシア沿海州でも発見されていて、何のことはない、遼河文明の鏡が沿海州や半島や日本に伝播しただけで、遼河文明の中心でもない周辺文化の、ローカライズに過ぎません。環日本海交易圏の存在を示す存在ではありますが、半島から日本への王権の移動を示す証拠でもなんでもないんです。

そもそも2200年前頃の半島ってのは、中国人の衛満が作った衛氏朝鮮の時代です。さらに下って紀元1世紀とか、漢王朝の武帝が四郡を置いた時代です。扶余系遊牧民族の高句麗が、その楽浪郡を滅ぼしたのは西暦313年です。朝鮮人という文化も概念も、民族意識すらも生まれていない時代です。現在の韓国のルーツである新羅は、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後ですから。ところが倭人は、島国という地理条件もあり、漢書地理志に早くも見え、三国志魏書東夷伝倭人条は3世紀末に書かれています。

■日本人のルーツは多様■

ちなみに硬玉の翡翠で作られた勾玉は、日本独自の文化です。その勾玉は、縄文時代の遺跡から発見されたのが最古で、朝鮮半島へも伝播しています。 吉武高木遺跡を持ち出して、日本の皇室のルーツを云々するなら、翡翠や黒曜石や勾玉が半島に伝播するのは、日本列島の王権が半島に移動した証拠になりませんか? 事実、半島の歴史書である三国史記にはそれを匂わせる記述(第四代王の昔脱解は多婆那国=但馬?丹後?の王子)もあります。左翼は、こういう不都合な真実には触れませんけれど。

イースター島のモアイがフンドシで正座して背中に文身(入れ墨)があるように、これはポリネシア系の文化です。ポリネシア人は台湾や福建省の辺りがルーツなんですが、北は日本列島やハワイ諸島、南はニュージーランド、東はイースター島、西はマダガスカルまで到達した、大海洋民族です。日本の稲作は長江文明から伝播し、オホーツク文化以前に、縄文時代から交易と人の移動もあった訳ですから。どうも一部の学者は、半島をルートを過大評価しすぎですね。日本文化のルーツはもっと広くて雑多です。

『DNAから見た日本人』斉藤成也

この画像を見ると、日本は環日本海文明圏と、東シナ海文化圏、オホーツク海文化圏の、3つの海域の文化圏があることが見えます。人の流れも、多種多様。縄文人は、東南アジアの南方系ルートが今は主流ですね。どうにも、1の半島ルートよりも、6のウラジオストク辺りからの日本海横断ルートでの渡来人伝播を、想定してしまいますね。稲を重視しすぎですが、ヒエやアワのほうがもっと古くから栽培され、北方ルートで伝播してきたなら、6のルートが最も自然ですね。新しい解析を待ちたいです。

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