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武士道と日本経済

◉質問:武士道とは何ですか? 回答:死ぬことと見つけたり。これは有名な『葉隠』の一節ですが。佐賀鍋島藩の山本常朝の語った内容を、田代陣基が書き留めたので、正確には『葉隠聞書』と言います。一般の人が武士道と聞いて思い浮かべるのは、このイメージでしょうね。割腹自決した三島由紀夫が愛読し、解説書まで書いた書ですから。何やら潔い男の生き様を説いているようですが……実際は処世術の本です。

【『武士道が日本経済の足を引っ張っている』呉座勇一が気づいた日本人の欠点】日刊SPA!

実業家・出口治明の一言から見えた日本人の弱点
売り上げが見込みにくいとされる歴史書の分野において、著書『応仁の乱』が48万部を超える異例のベストセラーを記録した呉座勇一氏。最新刊の『武士とは何か』では、武士の「名ぜりふ」から彼らの精神性を読み解くという新たな試みを行った。

「今回の挑戦の動機は、ライフネット生命保険の創業者で、実業家でもある出口治明さんとの対談です。『日本人は江戸時代の武士を模範としているから、内向的で海外に後れを取るのではないでしょうか』と質問され、ハッとしました。

https://nikkan-spa.jp/1867459

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、メイプル楓さんのイラストです。

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■武士道は近代の発明?■

気鋭の中世研究者の、呉座勇一先生による記事ですが。外国人にとっての武士道というのは、新渡戸稲造の著書『Bushido: The Soul of Japan』によって紹介されたものの方が、イメージしやすいようです。ただ、新渡戸稲造の武士道というのは、西洋の騎士道と対峙できる価値観として、明治時代に再ビルドされた面があります。例えて言うならば、シェイクスピアの演劇を日本の時代劇に置き換えた、黒澤明監督の映画のようなもの。あるいは格義仏教。

実際の武士道というのは、平安時代末期に生まれ、鎌倉時代に確立され、室町時代と戦国時代を経て、太平の時代である江戸時代に確立された部分があります。いっぽう『葉隠』自体は1716年頃に書かれたとされますが、それは徳川家康没後100年。戦国時代をリアルに生きた人間の書物ではなく、八代将軍吉宗が誕生し、享保の改革が始まった頃に書かれたものです。

そもそも佐賀鍋島藩と言えば、『佐賀怪猫伝』で知られるお国柄。元々の領主であった龍造寺家を、家臣の鍋島家が乗っ取った大名家。この主家乗っ取りを題材にしたのが、鍋島怪猫伝と呼ばれる怪談群です。龍造寺隆信の死後に、鍋島直茂が実権を握り、隆信の孫の高房が自殺してその父の政家も急死という、史実が反映されています。そして、『葉隠』の聞き取り役の田代陣基とは、実は龍造寺家の一族なのです。

■葉隠の武士道=任侠道?■

山本常朝という人物はどういう人かと言うと、実は藩主・光茂と男色関係にあったとされます。これは当時としては珍しくない話。光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)で、藩主が亡くなると殉死禁止令が出ていたため、追い腹を切ることも叶わず。42歳で隠居し、出家した、ちょっと偏屈な人物です。バイセクシャルであったとされる三島由紀夫が心惹かれたのも、そういう部分にあったのかもしれませんね。

つまり『葉隠』という書物は、創業社長から会社の実権を奪った専務の、覚えめでたかった部長が社長の急死で早期退職。そんな人物のところに、創業社長の一族の人間がやってきて、会社批判した内容を書き留めた本、そういうことになります(ものすご〜く俗流の解釈ですが)。だから山本常朝は、同時代に起きた赤穂事件を、手厳しく批判しています。なぜすぐ討ち入りしなかったか、なぜ泉岳寺で切腹しなかったか、と。逆に山本常朝は、同時代の深堀事件(深堀騒動、長崎喧嘩とも)を高く評価しています。

こちらは、佐賀鍋島家の分家の深堀鍋島家と、幕府の御用を務め苗字帯刀を許されていた町人の高木家との争いです。詳しくはWikipediaに項目があるので、そちらを読んで欲しいのですが。はっきり言えば、メンツを潰されたら必ず仕返しをしないといけないと言う、現代のヤクザの論理です。恥をかかされたらさっさと討ち入り、相手をぶっ殺し、首謀者は切腹。任侠道って、実は武士の論理に近いです。みなもと太郎先生の受け売りですが。

■宵越しの銭は持たねぇ?■

こういう論理ですから、本来は経済学とは相容れない部分があります。現代は経済ヤクザと呼ばれるように、ヤクザの経済力が重視される時代ではありますが。山口組の四代目指名にあたって、経済ヤクザとして優れていた山本広組長代行ではなく、武闘派の竹中若頭が指名されたのは、ヤクザは最終的には力の論理が働き、喧嘩に弱い奴はトップに立てないという不文律を、三代目の未亡人が尊重した結果でしょう。これが山口組と一和会の分裂につながるのですが、割愛。

山口組は、商売上手の関西文化の影響を受けていますが、それでもヤクザの論理は外せないわけで。ヤクザの論理=武士の論理。宵越しの銭を持たないことを自慢した、江戸っ子の文化=武士の文化を、上方の商人は幼稚と馬鹿にしていました。実際に江戸の経済は、上方や伊勢、三河出身の商人が牛耳ることに。江戸時代は、武士の教養の中心に、儒学が置かれましたから。こちらも経済軽視の文化。松平定信は「商は詐なり」とさえ言ってますしね。

日本近代経済の父と呼ばれる、渋沢栄一論語と算盤という形で、経済の大切さを説いたためか、武士道と経済学が何やら近しいもの・親和性があるものと誤解された面はあるでしょう。しかし呉智英夫子は渋沢の『論語と算盤』を、論語という「毒を薬に変えようとした者だけが、毒はあくまでも毒であることを知っている」と喝破したように。渋沢は「武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる」と見抜いてた訳です。

■第三の柱は商人道?■

先日、note【鎖国と高度経済成長と】で説いたように、禁欲的なプロテスタンティズムがなぜ資本主義を生み出したかといえば。商業や利益を軽視どころか敵視するキリスト教において、プロテスタントは真面目に働いた結果得た利益は問題ないという、教義の解釈変更をもたらしたことが大きいわけです。渋沢の、武士道と商業の融合とも見える論理は、近代国家に必要な商業の発展のため、武士道の理論的支柱である儒教=論語の解釈変更の作業だったと言えます。

中国がほっとくと皇帝制度に回帰するように。半島がほっとくと李氏朝鮮に回帰するように。日本人もまた、西行法師から重ねられてきた武士の文化に、ほっとくと回帰する側面があります。お互いに商売しようぜ、と持ちかけてきたモンゴル帝国のフビライ・ハンの使者を、斬首した鎌倉武士のように。というか、白村江の戦いから元寇、朝鮮出兵、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦と、その時々の超大国と戦争をする、バーサーカーの国が日本です。

そこに上方商人(近江・伊勢・松坂など)の文化を組み込むのは、難しいでしょうね。渋沢栄一がやったように、武士の文化に商人の文化をうまく、木に竹を接ぐしかないのでしょう。そもそも日本人は、90%が農民だったわけで。農民にとっての憧れの文化が武士の文化でもあった。その上位互換に、平安貴族と天皇の文化はありますが。残念ながら商人の文化は、この300年ぐらいの新しい文化でしかないため、第3の柱としては脆弱なのでしょう。これから育てていくしかないですが。

■文化の担い手の変化■

そもそも日本の歴史を概観すると、倭国王・帥升から初期ヤマト政権までは、部族社会。大陸の中華文明の影響を強く受けた、周縁文化を経て聖徳太子から中大兄皇子にかけての時期で、中央集権国家を志向。やがて天皇を中心とした王朝文化・貴族文化が花開きますが、平安時代後期になると、地方に移住した元貴族階級が、現地で独立耕作民として武士になり。平家政権から源氏政権を経て、武家文化へ。

それから上で書いたように、江戸時代に町人文化が花開き、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などが活躍する商人文化に。貨幣経済の浸透で大衆が購買力を増すと、都市部では町人文化が花開き。明治維新以降は諸外国と付き合う貿易立国が必要になり。国民皆兵の富国強兵殖産興業の国民国家が生まれ、国民文化に。ただこれは明治時代の武家文化を引きずったものでしたから。第二次世界大戦の敗戦によって、戦後民主主義と大衆消費社会の出現へ。

俯瞰すれば、王権文化→貴族文化→武家文化→商人文化→町人文化→国民文化→大衆文化 という流れ。上から下へ、文化の担い手が変化しているのが、わかりますよね? もう一つ言えば、日本は大陸国家である歴代中華王朝の影響を強く受け、島国でありながら大陸国家的な性格を長らく有してきました。いちおう国内では、檜垣廻船や樽廻船などの航路が開かれ、これが商業の活性化につながったのですが。本当の意味での海洋国家への転換は、明治維新以降。それを考えるとこれから150年ぐらいかけて、日本は海洋貿易大衆国家に生まれ変わるのかもしれませんね。

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