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『ぼっち・ざ・ろっく!』最終回雑感

◉今期の冬アニメは、本当に粒ぞろいと言うか面白い作品が多くて。第二期になる『SPY×FAMILY』と令和版『うる星やつら』の優勝争いかと予想してたんですが。ただその中で、いきなり新入幕の『ぼっち・ざ・ろっく!』がいきなり金星を挙げ、あれよあれよという間に15連勝をしてしまったような印象です。自分も、近年では『けものフレンズ』第一期と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』並みにハマりました。第二期があることを期待しつつ、とりとめもない雑感を書いてみたいと思います。

【ぼっち・ざ・ろっく!:最終回EDはアジカン「転がる岩、君に朝が降る」カバー 後藤正文「大切に扱ってくれてうれしいです」】MANTAN WEB

 「まんがタイムきららMAX」(芳文社)で連載中のはまじあきさんの4コママンガが原作のテレビアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」の最終回となる第12話「君に朝が降る」が12月24日深夜、TOKYO MXほかで放送され、青山吉能さんが演じる主人公・後藤ひとりがボーカルを担当する「転がる岩、君に朝が降る」がエンディングテーマ(ED)として流れた。ロックバンド「ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジカン)」の名曲のカバーで、同曲が、12月28日に発売される劇中バンド「結束バンド」のアルバム「結束バンド」に収録されることが発表された。最終話の放送を記念して結束バンドのメンバーが描かれたイラストも公開された。

 ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんは「何も持たずに生まれたはずなのに、間違うことや失うことを恐れて臆病になってゆく私たち。それでもこの世界を丸裸のまま転がってゆくのだという決意を歌った『転がる岩、君に朝が降る』という楽曲を、大切に扱ってくれてうれしいです」とコメントを寄せている。

https://mantan-web.jp/article/20221225dog00m200000000c.html

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、ダメ元で『ぼっち・ざ・ろっく!』で検索したら、ちゃんとファンアートがありました。

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■自己肯定感が低い作品好き■

どうも自分は、自己肯定感が低い人間を主人公にした作品が好きなような気がします。近年だと、『私の幸せな結婚』や『片田舎のおっさん剣聖になる』などが、評価が高いです。たぶん、尊敬する池田さとみ先生の『たそがれ色に染めて』という短編の影響でしょうか。ただし、自己肯定感が低くてうじうじしてる人間は、嫌いですけどね。そういう人間が、なけなしの勇気を振り絞って、一歩を踏み出す作品が好きなんでしょうね。

本作自体は偶然、教え子に勧められて単行本を読んでいましたが。原作漫画の本筋は抑えつつも、もうちょっとシリアス部分を強くしつつ、コメディ部分もアニメならではの表現を追求してと、女子校生の日常系4コマ漫画の原作よりも、ドラマ性が高まっていますね。その点は『けいおん!』に似ていますが。何よりも音がない漫画という表現に対して、音楽パートをかなり真剣に追求しているのはいいですね。『パリピ孔明』はそこが、ちょっと弱かったですが。高速は名曲揃いの作品に仕上がりました。

なお、『たそがれ色に染めて』は、池田さとみ先生の傑作選『池田さとみア・ラ・カ・ル・ト』シリーズの第3巻『西のペルシア』に収録されています。表題作の『西のペルシア』も、病気の少女が自分の生き方を自分で選択するお話で、前後編でしたがもう傑作で。この作品が評価されて、初期の代表作である『シシィ・ガール』の連載につながります。自分は40年以上ファンを続けていますが、男性でも心からオススメしますm(_ _)m

■不良性からロックの奪還■

本作のバンドメンバーは全員、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのメンバーから苗字を取っており、アニメ各話のタイトルも同バンドの曲からもじっています。第1話と最終話のタイトルも、同バンドの曲のタイトルを元に分解して、付けていますし。そのアジカンの後藤正文氏が、noteで『ぼっち・ざ・ろっく!』に言及されていましたので、該当部分を引用です。

10日。
河合監督が撮影したアジカン25thライブのドキュメント映画の舞台挨拶。その後は取材。帰宅してから、『ぼっち・ざ・ろっく!』というアニメを観た。下北沢シェルターが本物とそっくりで、懐かしい気持ちになった。アジカンが何を成し遂げたのかということは、もっと年寄りにならないとわからないだろう。評価や成果は、死んでからはっきりするような気もする。しかし、いわゆるロックをある種の不良性から奪還したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を観ながら思った。俺たちはロックが持つある種のドレスコードに反発していた。それは華美な衣装や化粧だったり、革ジャンのイメージだったり、あるいはハーフパンツとクラウドサーフだったりした。デビュー当時は「あんなのはロックじゃない」と散々言われた。傷ついたこともあったが、その言葉こそが燃料だった時代もあった。陰キャという自覚はないけれど(だってそれはドレスコードが仕向けたバイアスとキャラだろう)、拗れていたことは確かだ。今はすっきりと、ありのまま音楽に向かっている。楽屋でゲラゲラ仲間たちとやり合ったテンションのままステージに上がり、俺たちにしかできない音楽を鳴らす。ロックかどうかは本当にどうでもいい。今、自分たちにできることをやるだけだ。良いバンドになったと思う。

同上

「ロックをある種の不良性から奪還したことはひとつの成果なのではないか」───この言葉は重いです。例えばイギリスのロックバンドQUEENが売れ始めた頃、メンバーのビジュアルの良さから、アイドルバンド呼ばわりされました。彼らは政治性も薄かったですから、ロックに反体制とか、そういう文脈を求め、評価する評論家の受けは悪かったです。でも、政治性なんて時代で変わるものですから。

■音楽に思想性は必要なのか■

かつては性の解放を唱えてたフェミニストが、いつの間にか風紀委員みたいなことを言い出し、駅のポスターなどに「ふしだらざなす!」といちゃもんを付け。当時のアメリカ人としてはとても先進的な考えを持ったマーク・トウェインの、黒人奴隷差別を批判する内容の著作を、差別用語が使われているからと閲覧制限したり。

でも、音楽ってもっと、作った人間のパーソナル部分が反映されていて、世界小説ではなくてし小説のような側面が強いですよね。フレディ・マーキュリーの詞には、バイセクシャルであったり、親の期待に応えられない人生を選択した、個人の苦悩が溢れています。そこが描かれたからこそ、映画『ボヘミアン・ラプソディ』は世界中でヒットしただけで。そういう、パーソナルな問題は、普遍性があるのです。

親や兄弟や恋人や友人との、人間関係が生み出す葛藤は、1000年たっても2000年たっても、常に人間につきまとうのですから。それは『源氏物語』の六条御息所の、生き霊になって光源氏につきまとってしまうアンビバレントな感情に共感したり、あるいは『徒然草』に登場する榎木の僧正の狂態に、に苦笑し。あるいは兵法書の『孫子』や『六韜』の、マキャベリ以上にマキャベリズムな人間観に戦慄したり。時代は変われど人は変わらず、と思います。

■不易と流行は人の世の常■

ですが、政治性は……。例えば呉智英夫子も指摘されていますが、戦国時代後期の日本は、世界最大の火縄銃の生産国であり保有国でもあり、当時の大量破壊兵器でした。朝鮮出兵でも、秀吉軍の一方的進軍が可能になった理由でもありました。でも、現代で火縄銃の脅威や危険性を語る人は、まずいないです。昨日中の廃絶を求めて国会前でデモしたり、火縄銃の恐怖を訴えるためにダイインをしたりする人は、ゼロではないでしょうけれどほとんど見かけないです。

またチャップリンの名作映画『独裁者』も歴史的価値は普遍でも、批判等告発の対象であったヒトラーが自殺した時点で、歴史の中の存在に変わらざるを得ないです。ヒトラーのような独裁者がまた登場する危険性を考える作品としては、普遍的な価値があったとしても、です。有名な地球儀と戯れるシーンは、映画を越えて芸術的表現として永遠に語られるとしても、です。『街の灯』のボクシングシーンは、100年後だって笑いを巻き起こす普遍性があるのに対して……。

日本でも、六〇年代七〇年代、音楽は反戦フォークや反体制ロックが持て囃され、それが評価軸になった時代がありました。そこに反発した吉田拓郎氏らは、音楽性を重視する作風にシフトしましたが。評論家や音楽ファンの一部からは商業主義と批判され、比喩ではなくコンサートで石を投げられた。でも、半世紀近くたって、残ってるのはどっちの音楽でしょうか? エルビス・プレスリーの頃から、ロックンロールは既成の文化と対立しました。しかし反体制が自己目的になってしまっては、本末転倒でしょう。

■人と人の間に在る大切な事■

残念ながら、非常に薄っぺらい世界観で描かれた映画『新聞記者』が、日本アカデミー賞で六冠を達成し、行き過ぎたポリティカルコレクトネスに対する疑問を、お笑いに包んで表現し大ヒットした『翔んで埼玉』は、作品賞も監督賞も獲れませんでした。マスコミ界やアカデミズム界を支配してきたリベラル思想自体が、すでに周回遅れになっているのに。いや周回遅れになっているからこそ、必死に守ろうとしているのかもしれませんが。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの名曲『転がる岩、君に朝が降る』が、『ぼっち・ざ・ろっく!』の最終回のみのエンディング曲に選ばれたのは、 歌詞の「俳優や映画スターにはなれない それどころか君の前でさえも 上手に笑えない」 のフレーズが、本作品のテーマだろうからと予測できます。 主人公のぼっちこと後藤ひとりは、ギターに関しては努力できる天才ですが、極度のコミュ障。人がうらやむような才能を持っていたとしても、人と人の間にあるコミュニケーションこそ、人間の永遠の課題ですから。

念のために書いておきますが、自分は様々な表現の政治性を否定しているわけではありません。むしろ、作品というのはその時代その時代の抱えている問題が投影されていなければ、どこか上滑りしてしまうと考えています。しかしその政治性を前面に打ち出してしまったら、ただのプロパガンダです。まずは自分自身が抱えている問題があり、それと社会との接点を見つめるべきであって。まず政治性ありきでは、『新聞記者』のような薄っぺらい作品しか作れないでしょう。

■人間を描く…ということ■

本作『ぼっち・ざ・ろっく!』は、上質の笑に包みながらも、陰キャ・陽キャとゼロイチで分類されてしまい、AO入試で有名大学に潜り込む八方美人を安易に評価し、自分の好きなことを好きと貫く人間をオタクだの大人子供だの卒業できないと馬鹿にする風潮に対して、ある種の異議申し立てになっていると言えないこともないでしょう。でもそれは、創作者になりえなかった評論家に言わせておけばいいことであって。

努力できる天才だった後藤ひとりが、友達がいて、バイト先があって、そういう平凡な日常を手に入れる、平凡のありがたさを本作は描いていた、そこが自分にはたまらなくとお問いです。クリエイターの苦悩も知らず、成功した人間を妬み、嫉み、あまつさえ攻撃する人間が、SNS上にはたくさんいます。そういう、光の面ばかり見ていては、平凡な日常のありがたさは、見えてきません。自分は凡庸な人間ですが、幸い多くの天才たちを見てきましたが。天才ゆえの苦悩は遥かに大きいです。

本作を見て、ギターを弾いてみよう、バンドって面白そう、音楽って素晴らしいと思う人がひとりでも増えたら、それは大きな意味があることでしょう。そこまでいかなくても、後藤ひとりに自分自身を見い出したり、伊地知虹夏のように、誰かに声をかけられる人間でありたいと思ったりするだけでも十分でしょ。藤子・F・不二雄先生や松本人志氏は天才でも、A先生や浜田雅功氏のような虹夏役がいなくては、才能が世に出なかったように。管仲には鮑叔が必要だったように。

あるいは、受けを狙った歌詞を作ったひとりに、自分らしさを捨てないことの大切さ、狭くても誰かに深く刺さる作品を作ることをアドバイスしてくれた山田りょうのように。ぼっちの才能を見抜き、その背中を押す役を引く受けた喜多郁代のように。本作はキャラクターがそれぞれ、血の通った人間として描かれており、自分や自分の周囲の人間たちを重ね合わせつつ楽しめる、本当に素晴らしい作品に仕上がっていました。

第二期を期待したいです。結束バンドのアルバムも27日にリリースされますし。しばらくは、ヘビロテします。どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

売文業者に投げ銭をしてみたい方は、ぜひどうぞ( ´ ▽ ` )ノ