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大衆性と娯楽性

◉書きかけのまま放置したnoteをちゃんと書き上げようシリーズです。書こうと思った発端は、こちらのツイート。アニメを評価対象から外した『映画芸術』のような映画誌もありました。自分にはただの敵前逃亡に見えたのですが、荒井晴彦編集長兼発行人としては、くだらないローカルチャーを切り捨ててやったぜたぐらいに思っていそうです。未来で笑い者になる覚悟、あるのでしょうかね?

快楽亭ブラック師匠は邦画専門の映画好きで、それこそ邦画を観まくっているのですが。そんなブラック師匠に2001年の暮れ、高田文夫さんが今年一番面白かった映画は何かと聞いたら、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』と即答されたそうで。あのブラックが推すならと、仲間を集めて観た高田文夫さん、見巧者としてのブラック師匠を再認識されたとか。

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■権威主義者は誰か?■

邦画専門ゆえ、アニメも観まくって、なおかつ『オトナ帝国の逆襲』を推す快楽亭ブラック師匠は、アニメだからとか予断や偏見や見下しもなく、フラットに評価できるわけです。雑誌『映画秘宝』は2001年のトップ作品と評価しました。荒井晴彦氏には、それができないというだけで。ご自身の信念に殉じるのは、悪いことではないですが。こうやって批判されるのは覚悟の前でしょう。

翌2002年公開の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』は、2002年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞しています。国が認定する賞ですが、自分は文化庁メディア芸術祭はアニメも漫画も、読んでハズレのない作品ばかりを選出するので、昔から信用しています。民間の商業誌が権威主義に陥り、権威のはずの国がフラットに作品を評価できるという逆説。

ちなみに荒井晴彦氏に関しては、脚本を担当した『時代屋の女房』や『Wの悲劇』や『湯殿山麓呪い村』や『大鹿村騒動記』は、かなり好きな作品なんですけどねぇ……。映画は監督の力が大きいですけども。邦画がダメな八つ当たりを、アニメに対してやっちゃダメでしょう。カウンターカルチャーの、元ローカルチャーへの歪んだ嫉妬については、下記note『サブカルとオタクの違い』も参照してください。

■泥水から蓮は咲く■

江戸時代、雪舟の水墨画は高く評価され、浮世絵は大衆の卑俗な文化の扱いでした。でも、世界的に見れば雪舟は北宋画の系譜で、浮世絵こそ日本の独自性を認められました。雪舟の絵の価値は今でも高いですし自分も水墨画は大好きですが、あくまでも独自性という点での評価の話ですので、そこは誤解なきよう。ローカルチャーを下に見る、日本の権威主義者の悪癖の問題です。

見返り美人で知られる浮世絵の祖・菱川師宣は、多くの作品が春画、つまりポルノ画です。江戸時代、葛飾北斎や歌川広重、喜多川歌麿ら著名な浮世絵師はほとんどが春画を描いており、描いていないのは活動期間が短かった東洲斎写楽ぐらいでしょうか。もちろん、江戸時代でも春画は地下出版物です。でも、そのぶん金がかかっていて、金泥銀泥まで使った、豪華で高度な刷りを使っています。

また、大衆性のある娯楽作品であることと、芸術性は両立できるのではないでしょうか? シェイクスピアも井原西鶴も近松門左衛門も、先ずは当時の大衆の心に届いたのですから。でも、なぜか日本では高尚げな、高級げな、もったいぶった物を有り難がりますね。華とか幽玄とか、よくわからないけどありがたい。お経も内容は良くわからないけどありがたいと同じ、形を変えた権威主義なんですよね。

■権威と権威主義は違う■

清水正二朗名義で書いた性豪小説で多数の発禁処分を受け、猥褻文書執筆で最高裁から有罪判決を受けた胡桃沢耕史先生は、直木賞候補に連続落選されたときはポルノ小説出身には無理と、自嘲されていました(後に『黒パン俘虜記』で受賞)。いがらしみきお先生は『漫画エロジェニカ』という、エロ劇画誌としてもあまり売れていない雑誌でデビューしましたが、それが作品の評価や各種賞の受賞の足枷にはなっていないのに。

自分は、権威を必ずしも否定するわけではありません。なにしろ、保守派ですから。ですが、その権威が内実を伴わないなら有害で問題と思っています。いわんや、権威を否定するポーズの人間が、無自覚な権威主義者になったら、マズいでしょって話です。娯楽としてのジャンル全体の広い裾野があってこそ、前衛や異端、あるいは少数に届く作品が作れる余裕が生まれます。鈴の音さんの指摘は、まさにそこです。

日本の文化を見るに、浮世絵や根付や歌舞伎、マンガにアニメと、大衆の支持からのし上がったモノが世界に通用しています。ローカルチャーから生まれて、メインカルチャーに成り上がる文化。ところがメインカルチャーになった途端、権威主義になってしまう悪癖。チャップリンやキートンの映画だって、スタート時点では間違いなく、大衆文化=ローカルチャーとして出発していたのに……。

■手塚治虫先生の大衆性■

そう言えば、寺沢武一先生の代表作『コブラ』第①巻の解説で、漫画の師である手塚治虫先生は、大衆路線で読者の厳しい目があるジャンプでデビューしたことを褒めておられます。曰く「新しいひとは、ともするとマニア向きの雑誌からデビューし、かたよった内容の作品を描くことで満足してしまう」と。なかなか手厳しいですが、これはマニア向き雑誌の否定というより、傾向の分析です。

そもそも手塚先生自体が、『ガロ』に対抗して『COM』という実験的作品を載せる雑誌を作ったぐらいですから。緻密な絵に大胆なアイデアにキャラと、マニア向けで勝負できる寺沢先生が、大衆性の権化であったジャンプで得る物が多いと、評価されている訳で。むしろ、アニメを排除してお高くとまっている映画関係者にこそ、この言葉はグサッとくるんじゃないですかね。

売れるモノを作ることを見下すのは、少なくとも売れた人間でないとみっともないですね。少なくとも、強がりやルサンチマンと思われてしまう。三島由紀夫がなぜ東大に入ったかと問われ、東大を馬鹿にするためと嘯いたそうですが。売れなくてもいい、公金で保護しろと言い出したら、それは生きた表現や娯楽や芸術ではなく、死にかけた表現や娯楽や芸術になりつつあるってことですから。

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■正統と異端と活性化と■

作品は必ずしも、万人に受ける必要はありませんが、大衆性を愚劣低俗と見下すなら、そのジャンルは衰退します。常に異端が出て、正統派に刺激を与えて活性化しないと、淀んだ水は腐ります。バレエが行き詰まったときモダンバレエが出現し、旧来のバレエがクラシックとして活性化されたように。歌舞伎が映画に押されて、伝統を強調して大衆性を失いかけると、スーパー歌舞伎が生まれたように。

アニメを見下したりランキングから除外して敵前逃亡するのではなく、この世界に通用している大衆娯楽に比して、邦画は何が欠けてるのか、逃げずに向き合うことが一部の監督以外は世界に通用していない日本映画の、再生の第一歩のような気がします。キーワードは大衆性、娯楽性ではないかと。大衆性と娯楽性と芸術性は、併存できますしね。ちなみに、芸術性と卑猥も併存できますので。

公金にたかることを戦いだと思っている偉才監督様や、アニメを排除することが敵前逃亡だと思わない責任編集者が跋扈していても、仕方がないと自分は思いますよ? 本当に凄い作品を作ってる人は、売れない作品で申し訳ないが自分にはこれしか創れないんだという、ある種の潔さがあるんですが。高等遊民だから創れる作品もありますし。でも平田オリザ氏や深田監督や荒井晴彦氏には、その部分が稀薄ですね。
どっとはらい




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