富野由悠季監督の思想
◉Twitterで苦笑されているツイートが流れてきたので、誰かと思ったら藤田直哉准教授のものでした。以前にも朝日新聞の連載記事で、批判された方ですが。どうもTwitterは、アカデミズム界隈の方々の、専門外 やあまり詳しくない事象に対する雑な部分を、集合知で暴いてしまう部分がありますね。某哲学学者(哲学者ではない)の名誉教授も、ミュシャに対する美術的な評価やオープンデータに関する見解で、失笑をかっていますが。
この後も連続ツイートは続きますが、長いので割愛。藤田直哉氏の頓珍漢な言説については、以前にも批判していますので、興味があれば参照を。
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■ガンダムは架空戦記?■
富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』は、日本が連合国側で戦勝国になりたかった願望が投影された『宇宙戦艦ヤマト』への、反発から生まれた面があります。ベトナム戦争に事実上の敗北を喫したアメリカが、正義の同盟軍が悪の帝国に勝つ『STAR WARS』という架空戦記を必要としたように。戦後29年を経て作られたヤマトには、そういう側面があったわけです。以下のような対応関係が見られます。
見事に対応しています。まるで、日本軍大勝利の架空戦記と、本質は似ています。ガンダムは多分に、西崎義展氏への反発が富野由悠季監督や安彦良和先生にありました。でもそこで終わらないのが、富野監督の凄み。続編の『Zガンダム』では早くも、国連中心主義への疑義を打ち出していて、その点で富野由悠季監督は、最後まで共産趣味だった高畑勲監督より先鋭的だったと言えます。
『機動戦士ガンダムORIGIN』では、安彦良和先生がより左の方向にガンダム史の修正を図っていますし、未だに自分たちの学生運動を肯定されているのが垣間見えます。そこは、学生運動で弘前大学を退学になった安彦良和先生と、日大で学生運動の元締めである日本大学学生自治会連合の執行部(中央執行委員会)に反発した富野由悠季監督の、思想的な温度差は明らかにあります。
■海のトリトンと正義と■
事実上の初監督作品である『海のトリトン』にしても、最終回で主人公のトリトン族とポセイドン族の正義が、ひっくり返るなど、富野監督の思想の深いところで、一神教のような絶対的な正義に対する懐疑のようなものが、あります。ポセイドン族の行為は、防衛戦争だった……って、大東亜戦争肯定論っぽいですし。映画『日本沈没』に京都の高僧として出演しており、作中にも仏教の用語が出てきますね。ララァ・スンはインド人ですし。
こちらの富野由悠季監督の言葉って、安彦良和先生自身で原作とアニメを手掛けた『アリオン』で、オリュンポスを打倒することが自己目的化し、打倒後のビジョンが描けなかった点への、批判も含んでいるようにみえます。そしてこの問題は、うな丼大臣を更迭せよと叫ぶ立憲民主党議員と、それに安い拍手を送る支持者の問題にも繋がります。更迭して、その後でどのようなビジョンがあるのやら。
■伝統回帰する革新派?■
安彦良和先生はその後、漫画『ナムジ』で国家を運営する側を描こうとするのですが、けっきょくは物語は破綻します。ここら辺の分析は、佐藤健司氏による 1991年の評論集『ゴジラとヤマトと僕らの民主主義』で、綿密に分析されています。それはアレクサンドロス大王を描いた歴史漫画でも、近年公開された『ククルス・ドアンの島』でも同じです。小さなコミュニティの中では、お互いの顔が見えて、うまく国家運営ができても。巨大な国家になれば、それは難しいです。
70年安保の後、学生運動に挫折した人々が地方で小さなコミュニティを作る運動が、各地で見られました。山岸会に共感する左翼も結構いましたね。でも、そんなコミュニティも旧来から住む住民とトラブルが相次ぎ……。小国寡民なんて、学生運動の闘士たちが否定してきた、保守的な道教の理想であって。それは共産主義思想の限界を示します。 宮崎駿監督も、残され島やハイハーバー、風の谷と、小国寡民を理想化してる点で同じです。
連合赤軍のNo.3であった坂口弘死刑囚が、獄中で短歌を作って 新聞などに投稿し、後にはそれが歌集として出版されていますが。最も先鋭的な革命の闘士の一人であった人物が、山岳ベース事件では仲間たちを総括という名のリンチ殺人することが 止められず、あさま山荘事件を起こし。死刑判決を受けてたどり着いたのが、かつては否定していたであろう古臭い、伝統的な、表現の形式であったという点に、おなじ同じく全共闘の闘士であった呉智英夫子なども、感慨を覚えた旨を記しておられましたね。
■富野監督の複眼的視座■
富野監督の思想に関しては、小森健太朗先生が、実に的確な指摘をされていらっしゃいました。以下に転載しておきますね。なお、ツイート 中に登場する劇場版『機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光』は、OVAシリーズ『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』に一部新作カットを加え再編集したもので、高橋良輔監督は同OVAの脚本担当として第9話『ソロモンの悪夢 NIGHTMARE OF SOLOMON』と第11話『ラビアンローズ IN LA-VIE-EN ROSE』に参加されています。
高橋監督は、安彦良和先生よりも学生運動などに、懐疑的な部分を感じます。働きながら明治大学第二文学部に通い、結局は中退して アニメ業界入りした 高橋監督は、高畑勲監督や 宮崎駿監督のような実家が太いタイプの人間とも、学生運動で退学して アニメーターになった 安彦先生とも、運動の挫折というものに対する見方が異なるのでしょうね。代表作の『ダグラム』も『ボトムズ』も、祭りの後の虚しさ というか、無力感を感じます。
ダグラムの冒頭で錆びたダグラムを登場させた部分 などは、宇宙戦艦ヤマトを思わせますし。保守系の思想への理解というか 共感を部分的に感じた『ガサラキ』にも、高畑勲監督や安彦先生のような、未だに革命の夢を捨てきれないタイプとは異なる面を感じます。それは、『もののけ姫』で文明は人間が幸せに暮らしていくためにはある程度は必要だという、アーミッシュ的な部分的文明容認に転向した宮崎駿監督に近いのかもしれません。
■富野監督の繊細さとは■
正義を求めた人間が、現実の中で悪に転落していってしまう。仲間たちを 臨時で次々と殺して行った 連合赤軍の面々も、内ゲバで敵対するセクトの人間たちを襲撃して殺した人たちも、本人たちの主観においては間違いなく正義の側だったはずです。正義のつもりで始めたことが、気がついたら紛うことなき悪に転落していた。この強烈な挫折体験があれば、「正義は暴走しても正義」なんて、能天気なことは言えないはずなのですが……。
これは何も、革命だとか反体制運動だとか、そんな大きな話ではなく。管鮑の交わりで知られる管仲夷吾は、鮑叔との過去の思い出で、「彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。」と語っています。15年も生きていれば、この言葉にハッとするような経験のひつやふたつは、誰だってありますよね?
小森先生が指摘されている、反体制が悪になるという富野由悠季監督の複眼的視座も、ある種の作家的な感性なのかもしれません。太宰治の「生まれてきてすいません」ではありませんが、作家というのは自分が傷つきやすい繊細な感性があるがゆえに、自分もまた他人を傷つけているのではないか……という畏れを、常に持っているものです。未来では、最も世界で評価される日本人監督は黒澤明ではなく富野由悠季───という岡田斗司夫氏の指摘は、当たる可能性があると思っています。
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