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【日記2022/7/16】未設定だけど見せていいよ

・2500字弱


・漫画鑑賞ノルマ

・第83回発表(2018年12月受賞)


・「ダンディ・エッグ」高尾ひでおみ(22歳・愛知県)

 いけるな。わしにも。


・「学校のふしぎくん」くろださや(25歳・広島県)

 いけるな。わしにも。


・「DJ小学生シャイニング」プンタ(30歳・埼玉県)

 30歳!?

 いけるな。わしにも。



・ごめん。また妖怪大戦争(2005)の話していい? 感情が高ぶっちゃって……

・ネタバレ感想注意

・これアマプラで無料配信したらダメだよ。中毒になっちゃう……

・この映画、妖怪の良さを理解しすぎていてヤバいんだよな。妖怪の良さが押し出されているし、「妖怪以外でもできる良さ」が排除されていて解釈一致すぎる。続編の方(妖怪大戦争ガーディアンズ)は天狗/天邪鬼/茨木童子/夜道怪/酒吞童子みたいな「映える」妖怪がバトってるみたいだけど(未視聴だけどそのうち見るかも)、「映える人外たちによる、明確な目的のあるバトル」って妖怪でなくてもできるんだよな。だから私は妖怪ウォッチにはあんまり興味ないみたいな所ある。


・妖怪の良さ

 動物って、生きている以上「食べ物が欲しい、病気になりたくない、居場所が欲しい、富や名誉が欲しい、配偶者が欲しい、群れを守りたい」などとあれこれ目的ができると思うのだけど、妖怪って生き物ではないから何の目的もなく、プランクトンのようにフヨフヨしてるだけなんだよね。幽霊系の妖怪は、生前とっていた行動を認知症のようにフワフワと繰り返すばかり。たまに人間をつっついてみて反応を見る。挨拶されたら挨拶を返す。

 妖怪は人を驚かしたり殺したり助けたりするけど、そこに明確な意志があるわけではなくて、「なんかやっちゃおかな」程度のノリでやってるんだよね。(←そういう文献があるわけではなくて、ただの解釈語りなのですが)

 しかしお話づくりには目的が必須なので、目的を持たない妖怪は映画と相性が悪そうなものだけど、しかし妖怪大戦争はマジで妖怪たちをフヨフヨさせたまま起承転結があったのですごい。

 間の使い方が贅沢。みんなゆっくりのっりゃりしている。

 東京が滅ぼうとしているというのに、東京を救いたいというノリの一部の妖怪以外は全く非協力的なんだよね。

 「東京が滅ぼうとしてる」という噂が伝言ゲームで「東京で祭りがある」という噂になってしまって、「なんか皆行くならウチもいこ~」くらいのノリで集合してるの、非常にプランクトン度が高くて泣いてる……

「聞いたか、東京がすごいことになっとるらしいじゃないか」「東京ドームよりでっかい奴が都庁を食って、電気が消えたらしいじゃないか」「おお、行ってみるか」「江戸かあ、懐かしいなあ」「聞いたかよ、東京がえらい盛り上がってるらしいじゃ」「おう、東京ドームが都知事を食っちまったってよお、でな、で駅まで食っちまって、真っ暗だってよ! 真っ暗真っ暗! すごいぞすごいぞ!」「聞いたか聞いたか、東京真っ暗祭り、行くっきゃねえずら」「聞いた聞いた! シビれる都知事の粋な計らいだってんじゃねえかあ」「祭りや、祭りや祭りや祭りや、でっかい祭りや、祭りや祭りや」「ぎょうさん集まるらしいでえ、日本最大級のお祭りやて」「よっしゃ、はよ行こー! おい! みんな行くで!」「祭りじゃ祭りじゃー!」「祭りだ祭りだー!」「アジア最大級の祭りやでー!」「祭りだ祭りだ」「なんの話? 面白い話?」

 セリフ運びが100点すぎる。「なんの話? 面白い話?」というセリフの芋臭さ、すごいよ。

 もともと縁日の祭りってみんな、催しらしい催しがなくても、皆が集まってるというグルーヴ感を体感するために集まってるんでしょ。そういう、合理では説明のつかない、なんかやりたいからやってるだけの行動、非常に動物的で好きだ。

 自我があるのかどうかも微妙な、とっくりに目と足がついてるだけの付喪神とかも無表情でまま祭りに参加してて、「君も、みんなの集まってる所に自分も集まってみたいというノリはあるんだね……」と思った。クライマックスで大量の妖怪が集まってるシーン、全員が「ただ集まりたいから集まってるだけ」なの、動物すぎる……


・ただの解釈語り

・現代の日本では妖怪が実在すると本気で信じている人間は少なく、フィクションのものとして扱われている。その理由は、民間人が抱く疑問の大体は科学で説明がつくようになったからだと思っている。世界は元素でできており、雷は電気だし、地球は丸いし、天の川の正体は銀河だし、狸も狐も変化能力は持っていない。未知が既知になり、災害警報も不審者出没情報も迅速に伝わり、世界がホワイトボックスになりつつあるから妖怪(や神や幽霊などのオカルト全般)への信心が昔ほど強くないのだと解釈している。未知を妄想で補おうとしたときにオカルトが発生する。

・砂かけ婆って、水木しげる先生が姿を描くまでは姿が目撃されたり描かれたことがなかったのだけど、それって妖怪の本質すぎるんだよな。識字率の低い田舎では噂話が強い情報源だったのだろう。

民族誌『草津のふるさと文化』の「砂ほりばばあ」項では、砂ほりばばあ(関西弁で砂を放る婆の意)といって、現在の追分町という地域にある竹薮の一角に婆が住み着き、そこを通る村人に砂を投げつけたという。そのため、子どもたちは「このやぶ通ったら、砂かけられる。砂ほりばばあがおるわいなぁ。」と竹藪の笹を千切っては投げ合いながら遊んでいたという

「近所に砂をかけて来る、終わりの老人がいる」程度の噂話に尾ひれはひれがついて妖怪になったの、本質すぎるな。妖怪はいると思ったからいるのだ。

・あるいは、子供を危険から遠ざけたい親が「夜道を歩くと妖怪が」「河に近づくと妖怪が」という話を作って、それがそのまま共通認識になっていった例も確実にあるだろう。大人になると妖怪が見えなくなるとはそういうことなのかもしれない。


・妖怪は妖怪単体では存在できなくて、噂話を信じる民衆によってテキストデータ上にのみ存在できるという芋臭さ/人間臭さが好きなんだよね。


・おわり


 

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