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俗物化

先日、自分のメモがふと目に留まり気になった。

人間というのは歳を取るに従って、程度の差こそあれ俗物化していく。

ポー/黒猫・アッシャー家の崩壊

自分も歳を取ってきている。年々歳を重ねてきており、今年も確実にまた1年歳をとる。したがって自分もきっと、去年の自分よりも程度の差こそあれ、俗物化しているのだろうか。

たしかに年を取ると、角が取れて丸くなったなぁ、という自覚はある。学生時代は触るものみな傷つけたわけではないにせよ、それなりにやや痛々しい刺々しさがあったとは思うし、触れるものに何かしらの価値判断をし、イケてる/イケてないの選別を繰り返すような時期もあった。曰く、○○なんてクソだ、みたいな。それはそれで子細なことでも気に入らないものに拒絶反応を示す若さゆえの高感度センサーが働いていたのだと思うし、今ではすっかりものわかりのいい態度もとれるようになっている。感性の許容量が拡がったといえば聞こえはいいけれど、妥協の産物なのか、もはやどうでもよくなってしまったのか、一抹の寂しさを感じるところもある。

そんなことを考えていたら、そもそも俗物とはなんなのか、とふと気になったので調べてみた。

世間的な名誉や利益などに心を奪われている、つまらない人物。

デジタル大辞泉(小学館)

ふむ、なるほど、”世間的な名誉や利益” に ”心を奪われている” 状態にある ”つまらない人物” のことなのか。思っていたよりも辞書とは辛らつであるな。

正しい言葉の意味を確認したところで改めて考えてみたいのだけど、やはり人は歳を重ねるごとに、俗物化していくのだろうか。世間的な名誉とは社会的な地位向上、利益は金が欲しいといったところか。たしかに、年を取るにつれて、金が欲しいなと思うことは増えた。これは確実に増えている。生きていくだけで金がかかるし、金を稼ぐためにかかる時間の長大さに目がくらむ時があるからだ。サラリーマン人生も折り返し地点付近になってくると、すでに20年近く働いていることになるのだけど、あと20年以上働くとか正気か、と思うときが増えた。まぁそれも本当に得たいのは時間であって、手段としての金が欲しいという感覚が近い。

それと同時に、仕事以外のちょっと違う軸でも人生の喜びを見出しておかないと人生面白くないだろうなと思うくらいで、むしろ世間的な名誉への関心は薄れてきているので心を奪われてはいない気がするんだよなぁ。

でもやっぱり金欲しいって思うなら俗物化してるってことか。若いときって別に金なくても多感な人生送っていたわけだものね。人生の行く末を考えているのも俗っぽいといえば俗っぽい。

何よりこの文章も1日置いて読み返してみると俗っぽい気がする。昨日より俗物化しているのかもしれない。明日はもう少し俗物化したいと思う。俗物化していくことへの覚悟みたいなものが芽生えてきたような気がする。



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