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文月の水無月


 夏越しの祓に水無月を家で作るようになって何年か経つ。と言っても、神社へも行かず茅の輪もくぐってないのに水無月だけ食べていたりするのだけど、半年の穢れ落としと残り半年の無病息災を願うという本来の風習はさておき、
 「早いなぁ、もう半年過ぎた」
と言いながら水無月を食べるのはちょっとしたけじめにはなる。半年無事に過ぎたことを有難いと思えば気持ちも新たになってくるものだ。

 今年は六月に入ってから父が体調を崩し、実家と行ったり来たりしていた。
 実家は父と母の二人暮らし。母は認知症。軽度で、ボケきってはいない。「ごはんごしらえくらい出来る」と言っているけれど、コーヒーメーカーにインスタントコーヒをセットした形跡があったり、インスタントコーヒーだからお湯を入れるだけだと確認してもエスプレッソよりもはるかに濃いコーヒーが出てきたりする。なので父が毎日三食ごはんの支度をしている。私がたまに様子を見に行っても父がごはんを作り、母は洗い物、私は上げ膳据え膳。
 「迷惑かけないよう二人でがんばるから」
といつも言うので任せていたが、今から思えば疲れが溜まっているのは明らかだった。
 耳の遠い父の病院に付き添い、スーパーへ買い出しに行き、おかずを一、二品作って帰るのだけど、その二、三日の間にも「あれが無い」「どこへやった」と何かしら小さな事件?は起こり、延々と続く母との同じ会話にイライラは増してくる。怒るまい、怒るまい、と三日目にもなると自分が全然笑ってなくてこわい顔になっているのがわかる。父は母と二人きりで毎日さぞかし大変だなと同情するのだけど、父が怒って母が泣いて、しばらくするとまたテレビ見ながら普通にしゃべっている。そんな二人の姿に拍子抜けし、まぁいいか、なんとかなるさと私は退散する。
 実家からの帰り、電車の乗り換えついでに駅前の百貨店をブラブラするのは毎度のこと。気分転換でもあるけど、夕方家に帰ってごはんの支度をするのが面倒だからお惣菜を買って帰るのだ。

 「水無月 6月29日と30日の限定発売 たねや」
 店先の貼り紙を見て、今日何日?と慌ててスマホを見る。30日やん。今日やん、水無月。うっかりしていた。人気のたねや、今日までの限定販売のもう夕方、残っているはずもないかとがっかりしつつ、そうかぁ、水無月は特別(ハレ)なもので、むやみやたらに食べるものではないんだな、普段(ケ)の食べ物になってはいけないんだなぁとあらためて思い、たねやも他の和菓子店ものぞかず、すぐ食べられるお惣菜だけ買って、電車に乗る。実の親の好みさえ、あれ?これはあんまり好きじゃなかった?って感じで、もうよくわからなくなったのに、去年から同居を始めた姑の好みなどわかるはずもない。それに、贅沢と思われるだろうか、ケチくさいと思われるだろうかと食品売場をあっちへこっちへぐるぐる、散々迷って買ったのに、家に帰って並べたら足り苦しくて、どっと疲れる。

 翌朝は早く目が覚めたので、夫と近くの荒神山の麓の遥拝殿へ行く。今年はみなづき祭に一緒に行こうと言っていたのになぁ。誰もいないひっそりとした参道の向こうに茅の輪が見えた。
 そういえば、ひと月前の5月末、多賀大社に行ったらもう茅の輪が準備されていたので、くぐっておいたんだった。なんだかずいぶん前のことみたいだ。

 水無月の夏越の祓えする人は
  千歳のいのち 延ぶといふなり

 長生きかぁ、長生きね・・・。
 老いていく親を見ていると、いろいろ思うことがある。元気で長生き、それに越したことはない。私だってそう願う。親たちも今でもそう願っている。

 一日遅れたけどくぐらせてもらおう。

 買わなかった水無月もやっぱり作ろう。毎年家の畑でとれた小豆の蜜煮から作っているけど、今年は時間がないかなぁと甘納豆を買っておいたんだった。
 ういろう生地を蒸し、さてと甘納豆の袋を開けると、え?これだけ?という訳で、小豆少なめの水無月。
 とりあえず半年は無事に過ぎた。先のことはわからない。
 だけど今、一日遅れの水無月はおいしい。


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