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映画 怪物 を観てきた。

怪物だーれだ

ずっと楽しみにしていた『怪物』を映画館で観てきた。

自分の深いところに潜っていき、あの時自分は何を感じたのか、じっくり向き合いたくなるような作品であったので、まだ考えや気持ちの整理がついていないけれど、とりあえず今感じ、考えている事を新鮮なうちにまとめてみたい。

(以下ネタバレ)

まず一つ目に、『子どもと大人』という視点について。
自分が子どもの頃、大人になっても絶対に忘れたくないと強く思ったことがある。「子どもは大人が思うほど、子どもではない」ということ。
なんの本かは忘れてしまったけれど、当時読んでいた本に出てくる主人公が、『大人もかつては子どもだったのに、大人になると自分がかつて子どもであったことを忘れてしまう』と言っていた。

当時、幼稚園や小学校、また親戚付き合いといった社会生活の中で、日に日に変わっていく自分の価値観や考え方の広がりと、親や自分の周りの大人がわたしに対する認識にズレがある事を感じていた。
確かに、一年前はもうちょっと「子ども」だったかもしれないけれど、今は、親が思うより子どもではない気がする。といったギャップを少し窮屈に感じることがあった。子どもは、大人が思うよりずっと大人なのに、それが見えていない、と感じていた。
この映画でも、主人公2人の子どもたちが2人だけで話している時、「親には気を使うよねー」といったような、子どもらしからぬ、大人びた会話をしているシーンがあった。
きっと、ミナトの母をはじめ、まわりの大人達はそんな子どもらしからぬ気持ちを子供が抱いている事に気づいていないだろう。
たぶん、子どもは大人が思うより、大人だ。
しかし、いま大人になって思うのは、やっぱり子どもはまだ「子ども」であり、発展途上中なんだろう、ということ。きっと、『子ども大人』みたいな、不安定な状態にある。
映画では、ミナトがホリセンの人生をある意味壊してまで、自分の大切なもの、守りたかったものを守った。
しかし、ミナトはホリセンの人生を壊してしまった事には気づいておらず、なんならホリセンの人生まで想像していない。また、ミナトが、ミナト自身を傷付けるような行為をする事で、母親がどれ程傷つくのかということまでは想像できていない。
きっと、ある程度「大人」になると、相手の立場を想像して共感する、ということが経験のうちに少しずつできてくるようになるのだが、子どもはまだそこが発展途上なのだろう。
そんな発展途上中の子ども、『子ども大人』を守り、安心して大人になれるようにサポートしてあげるのが大人の役目なんだろう、と改めて感じた。
影響力のある大人からの一言は、大人が思っている以上に深く子どもに突き刺さっている。ある時それは、その子が生きていく上でのチカラやエネルギーになるけれど、またある時には深い傷をつけることにも繋がる。
それは、大人同士でも同じだと思うが、子どもが持っているまだ柔らかくて無防備な心に対してはより注意深さが必要なのではないだろうか。
傷つきやすい相手に対して、どうやって関わっていけば良いのか、ずっとわたしの中に横たわっていた課題を改めて差し出された気持ちになった。

二つ目に、ゲーム『怪物だーれだ』について。
作中で、ミナトとヨリが電車の中で頭の上にイラストを掲げて、お互い何のイラストを掲げているのかをヒントを出しながら当てるゲームがあった。
それは、まさしく、この映画を表しているゲームなのだろうと思った。接する人によって、見えるものや相手の印象は大きく変わるし、その表現の仕方も違う。
第一章では、ミナト母の視点で、ホリセンがとんでもない教師に見えたが第二章では自分なりのやり方で頑張ろうとしている生徒思いの新任教師に見える。第一章、第二章では、校長が校長という立場に執着している腹黒い人間に見えていたが、第三章では硬く守られていたミナトの心を唯一開いた大人に見えた。
小説「ふたつのしるし」の解説(渡辺尚子さん)で忘れられない一節がある。
『人間は、ひとつの本質を核とした、かぎりなく球に近い多面体の生きものだ。ノックする相手によって開かれる窓は変わるし、そこから見える景色も違ってくる。窓の向こうから意外な一面が現れたとしても、これまでの彼女を否定するものではない。すべてはひとつの本質から無数に生まれる自分なのだ。』(幻冬舎文庫「ふたつのしるし」宮下奈都 解説p222)
ひとは色々な顔を持ち、接する相手によって覗かせる顔は異なる。どれもその人を表す『本当』なのだろう。
誰しもが誰かの怪物にも、ヒーローにもなりうる。
そんな人間の危うさや、不安定さ、ひとつには決められない面白さを見つめ直す機会になった。

最後に、最近感じていたことと絡めて。
最近読んでいる本や、人から聞く話から、実感として腑に落ちたことがある。
世の中の本質や大切なことってそんなに沢山ないのかもしれないということ。
そのひとつ、『自分が主張するより、まずは相手の話をじっくり聞き、受け止める』ことが大切だということをこの映画からも感じた。
きっと世間ではよく言われていることで、月並みなことかもしれないけれど、最近やっと自分の中でその価値が腑に落ちたように思う。

杉原保史さん「プロカウンセラーの共感の技術」で以下のような一文がある。
『価値判断を保留した態度で、そのままに、ありのままに受け止める態度が需要であり、そこで感じられることに注意を向けて感じ取ることが共感なのです。』(創元社「プロカウンセラーの共感の技術」杉原保史 p62)
世の中たくさんの人がいて、自分以外の人間については、例え親や家族であっても一見理解が難しい時がある。そんな時、相手を受け入れることは簡単なことではないし、きっと修行が必要だけれど、相手が何をもってそんなことをしているのか、まずは沢山聞いて、受け止めることで、世の中の色んな絡まりがほどけていくのだろうと思う。
そのことをパートナーに話したら、太古の昔から、自分と同質なものと異質なものを対立させて、異質なものを敵対視することは、人間が動物として生き残るうえでの本能として持ち合わせているものなのかもしれないというはなしになった。
人間が道具を持ち、それを使いこなし、経済活動を行うようになり、それを発展させ…一概には言えないが、いまだいぶ人間が豊かさなどを手に入れて、それを維持していく時期となったのではないか。そして、維持していくためには、共感や相手への理解などが、いま、いまの時代だからこそ必要なときなのではないか、と。
それが正解かは分からないが、いまの時代を生きる私たちが考えたことを次世代に伝えて、また考え続けてもらうことが大切なのかもしれないね、といわれてまたひとつ別の角度から捉えられたように思う。
この映画でもマジョリティとマイノリティの対立がいくつかのテーマで描かれていたが、目の前にいるその人が何を思いなぜその様な行動を取ったのか、まずは目の前のその人の話を聞くことから始まっていくのだろう。



映画を観たのは6/4だったが、前日の台風2号の影響で、映画館に入る時はどんよりとした空から雨がまだ降っていたのだが、映画を観終えて外を見ると、台風一過の快晴であった。

こんな、空模様と映画、自分の気持ちがリンクした映画体験ができたこと、とても忘れられないひとときになった。

まだ、たくさん考えて、整理していきたいところではあるけど、まずは今思っていることを記してみました。

映画を観終わったら快晴になっていた。

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