サザンクロス

「即死だったみたいだ」
 病院に駆けつけた俺に、お前の兄さんはそう言った。
「痛くも苦しくもなかっただろうと、先生が」
 そう言うと彼は笑った。その隣でお前の母さんが、俺に向かって泣きながら笑って見せた。
「ありがとうね、来てくれて」
 俺は小さく頷いた。一番の親友だから、という理由で連絡をくれた彼らに俺は感謝していた。
 苦しまずに亡くなったという、その顔を見下ろす。それはとても安らかで美しかった。身体の方は目も当てられない惨状になってしまったらしいが、奇跡的に顔だけは無事だったようだ。彼が生前、何度も自慢していた美しい顔。大きな目、通った鼻筋、俺の憧れ。
「車で、食事に行く途中だったんだって」
 お前の兄さんが続けた。
「でも、きっと痛くもなかったから。それだけが不幸中の幸いよね……」
 お前の母さんが言った。そうですね、と俺は頷いた。
 二人の啜り泣く声をどこか遠くで聞きながら、俺は自分が泣いていないことに気がついた。

────

『先日、交通事故で亡くなった加藤イオリさんのお別れの会が都内で──』
 アナウンサーの暗い声と、喪服を着てすすり泣くたくさんの女の子が大写しになったテレビ画面を、ほとんど反射的に消した。
 ここ数日、ワイドショーはイオリの話題で持ちきりだった。舞台俳優とはいえ、芸能人が交通事故で即死したというショッキングな内容は、世間の昼休みの暇潰しにもってこいだったのだろう。
 何度か共演していて交流があったせいか、俺のところにも取材が来た。住所が割れていたらしい。マネージャーに頼んでホテルに避難した。綺麗に整えられたシングルベッドに腰掛け、煙草に火を付ける。禁煙中であったのに、喫煙OKの部屋をわざわざ選んだのは、イオリが死んだからだ。あの子は煙の匂いを嫌っていた。あの子のためでなければ、禁煙なんてしなかった。
 二週間前、俺はイオリに告白した。共演していた舞台がちょうど千秋楽を迎えた夜、座組みのみんなで打ち上げに行った。みんなの解放感からかガヤガヤとうるさい店内の中で、俺の隣で美味しそうにシーザーサラダや唐揚げを頬張るイオリだけがとても美しく見えた。
「あのさ、この後二人でどっか行かない?」
 夜が深くなって会がお開きになる頃に、程よく入った酒と疲労と満腹感からか眠そうな目でそう言ったのは、イオリの方だった。
「どこって、どこ?」
 靴を履きながら、俺はイオリの顔を見つめた。俺は初めて会った頃から、イオリの顔が大好きだった。数年前のオーディション会場で見かけたのが初めだったと思う。五つ下の彼は、当時まだ未成年だったように思う。既にイオリは、自分の輝かせ方を知っていた。笑い方はその最たるものだ。美形であるが故の嫌味をひとつも感じさせない、屈託のないそれは、ファンだけでなく俺のことも虜にした。それからずっと、共演者として親交を深めるとともに、それ以上の感情を抱き続けてきた。自覚があった。きっと俺は、この子のことが愛しい。
「ん〜〜ラーメン食べたい」
「また食うの?!若いなあ」
「いいじゃん、奢って奢って。頑張ったご褒美」
「俺も頑張ったんだけど」
「じゃあ割り勘でいいから連れてってよ」
 酒が入っていたが、別にいいかとバイクを走らせた。二人乗りで駆ける摩天楼の中は、酔っ払いには爽快だった。お前のはしゃぐ声が耳元に聞こえたあの夜。今思えば、あの時事故に遭えばよかったのではないか。仮に即死だったとしても、二人で死ぬことができたら、否が応でもあの子は俺のことを思って死んだだろうに。
(ずっとあの夜の中にいたかった)
 テレビはお前が死んだことばかりで不快だ。ネットニュースも同様。少しザッピングなり画面をスクロールするなりすれば、自分の顔が出てくるのにもうんざりした。あまりにしつこい取材にうんざりし、「残念です」と消え入るように呟きながら涙を流して見せた、それがトップニュースになるのだから堪らない。しかし、それらを手放せば時間を潰せないのも事実で。俺は煙草の火をもみ消してベッドから立ち上がった。

────

 ラーメンをお腹いっぱい食べた後、またバイクを走らせて、人気のない埠頭へ向かった。
「すげ〜、何ここ。セナくんってこういうとこで女と会ってんの?」
 にやにやしながらお前はムードも何もないことを言った。もう夜はかなり深くなっていて、日付はとうに変わっていた。なんとなく彼を帰したくなかったのは、ゆっくり二人きりで話せるのは最後だと、虫の知らせ的な何かがあったのかもしれない。なんてことを今更になって思う。
 俺は不躾な言葉に曖昧に笑って、きょろきょろと辺りを見回して落ち着きのないイオリの腕を不意に掴んだ。大きな目がこちらを見る。対岸の都会の煌めきと、俺の顔が反射して、綺麗な宝石が光った。
「好きだ」

────

 ホテルの駐車場に止めていたバイクに跨る。あの夜イオリを載せていたタンデムシートには、今は大きな黒いボックスが取り付けられている。
 俺は舞台の本番前にやるように、大きく深呼吸をした。
『この中にはイオリの頭部が入っている。』

────

 告白したとき、イオリは動揺したように俺を見つめ返した。
「でも、俺」
「彼女いるだろ。知ってる」
 何度か会ったことがあった。特別美人ではないが(イオリの彼女と思うからそう感じるのかもしれなかったが)感じのいい子だった。『匂わせ』もしない良い子なのだと、イオリも話していた。
「返事は要らない」
 それだけ言うと俺は、ヘルメットを被り直してバイクに乗った。イオリが慌てたように、ついてくる。承諾を求めてはいなかった。この子の美しい頭の中が、ひとときでも自分でいっぱいになればそれでよかった。イオリは優しい子だから、「要らない」と言われればより一層、こちらを傷つけない言葉を選んで返答してくるに決まっていたのだ。

 葬式には行かなかった。出棺、火葬と言う儀式に耐えられる気がしなかった。イオリの体が、あの顔が、炎に奪われてしまうということが耐え難かったのだ。慰めのために始めた『イオリの頭部は自分の手の中にある』という役作りが、存外成功してしまった。
 告白をする前、二人で焼肉に行ったことがある。
「ねえ焼肉マジで奢ってくれんの!?俺大好きだよ!」
 奢ってやるからといって乗り込んだ、タクシーの車内を思い出す。
「そんなに?」
 俺があまりのハイテンションに苦笑しながら聞くと、お前はさらにうきうきした声で言った。
「当たり前じゃん!うわうわうわ、何食べよっかなあ!」
 はしゃぐ大きな目に街の明かりがキラキラ反射して綺麗だった。事故に遭った時も、共演者との焼肉へ向かう道中だったらしい。きっと死の瞬間も、あの綺麗なまま残った美しい頭部の中身は、その夜食べるはずだった焼肉のことでいっぱいだっただろう。
 タン、ホルモン、ロース、カルビ、ヒレ、ハツ、ハラミ。石焼ビビンバ、わかめスープ、白ご飯、シャーベット。
 俺がお前のことを好きだと言った、あの夜のことをお前は、きっと思い出す間もなく死んだのだ。お前がもしも長々と苦しんで死んだなら、きっとその綺麗な頭の中は俺でいっぱいになったはずなのに。それがどうしようもなく腹立たしかった。苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで、俺への返事が出来なかったその後悔でいっぱいになってから、死ねばよかったのに。
 俺はイオリの頭部を、炎から救い出す妄想に取り憑かれた。焼け焦げた肉体にはタレをつけて美味しく食べる想像に嵌まり込んだ。事故で汚く細々になった部分はお腹の中に隠してしまって、美しいままの頭部を持ち逃げして氷だかホルマリンだかに浸しておく。俺はその頭部を、どこかの地下に保管しておく。そして数世紀後に誰かがそれを発見して、あまりの美しさに息を呑むのだ。
 クラクションの音で我に帰った。青信号の前でボーッとしていた。急いで発進する。いけない、今はイオリとのドライブデート中なのだ。しっかりしなければ、事故に遭ってしまう。
 昼のビル街は異常な熱気で、あの夜の爽快感はなかった。行き先は特に決めていなかったが、俺の足は自然とあの埠頭に向かっていた。
(ねえ、お腹すいた。コンビニで何か買ってよ)
 イオリが囁いた。仕方なく道中のコンビニでおにぎりを二つ買った。俺肉がいい!とイオリが言ったので、片方は牛肉入り、もう片方が明太子。
 夜と昼では、同じ場所でもずいぶん印象が違った。闇の中ではあれほど綺麗に見えた対岸は、単なる雑然とした建造物の集まりであった。バイクを止めてヘルメットを外し、牛肉おにぎりを頬張った。ああ、これイオリのだったな。ごめんごめん。タンデムシートのボックスには、あの夜あいつが嵌めていたヘルメットだけがあった。

『でも、きっと痛くもなかったから。それだけが不幸中の幸いよね……』

 お前と付き合っていた女の子は、お前の兄さんと母さんのようにきっと泣いているんだろう。お前が痛みを感じなかったことを、不幸中の幸いだとか言って、真っ直ぐに喜べるような愛し方をできたらよかった。だからと言ってお前は、俺を選びはしなかっただろう。即死じゃなかったとしても、お前が死の間際に俺を想うことはなかっただろう。そう思えば、死んでくれてよかったと想うのだ。炎、死、焼肉。比べようのないものにお前が奪われていったことを、俺はとても嬉しく思う。どうせ初めから、見返りなんてなかったのだから。
 牛肉を噛み切り、ごくんと飲み込んだ。何を奢ってやっても、お礼もそこそこに次をねだるようなかわいいやつだった。
 何も返してくれなくていいから、想像の中でだけ、お前の頭を抱かせてくれ。

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