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モグラはネオンに憧れる


前回の記事に思った以上の反応をいただき少しびっくりしています。
同じように生き辛さを感じている人がいるのだろうか、消化しきれない過去を抱えて今日も日々を送っている人がいるのだろうか、なんて考えたりもしました。
もしそうであれば、個人にとって生きやすい環境になればいいなとそっと祈りました。
皆さんよく生きていてくださったなと。
暗い記事になってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました。


今回も発達障害関連の内容にはなってしまうのですが、いかんせん私に有益な情報を発信する知識やスキルがないため、また私的な内容になってしまいます。ご容赦ください。

今回は発達障害からなのか性格からなのか、おそらくどちらも要因としてはあると思うのですが

見えないものはない

と認識してしまう私の特性について書いてみます。

https://twitter.com/naoto_muranaka/status/1309842388748099584?s=20

よく発達障害界隈で見かけるフレーズではあるのですが、このツイートとこの記事を拝見して
"まじそれな"
となりました。

私の生きる上での困りごとだいたいこれに集約されるんですよ。
人によると思うんですが私の場合物理的にも心理的にも「見えないものはない」となってしまいます。
空気が読めないっていうのは、視界に入らないものを「感覚で捉えることができない」。
たとえば、目の前の人とマンツーマンでおしゃべりするのは私は好きだけれど(相手が快適かは自信がないところではありますが)居酒屋で大人数でワイワイ話すとなると、あの人のグラスがなくなってるから次のドリンクを勧めなければとか、お開きにしたい雰囲気が出ているとか、そういうのをスッと理解することができないんですね。
職場でも自分の仕事があると周りの人が近づいてきているのがわからないとか。
飲食の仕事をしているとお客さんが近づいていることに気づかなかったり場所が変わったテーブルに体をぶつけてしまったりとか。

ものをなくすのは、意識から外れたものは「視界から外れるから見えなくなってしまう」、ので変なところに置いてしまったりします。これも例を出すと、「もう帰ろう」ってなると、その場から離れることに意識がいくので、テーブルにものを残して帰ってしまったりするんです。それが大切な貰い物のプレゼントであっても。
「ものを大事にできないやつは人も大事にできないよな」って言葉が刺さります。

いわゆるシングルタスクしかできない、マルチタスクはできないってやつですね。
まさにそれです。

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私の視界はこんな感じ、狭くて一方通行。

(これは兵庫県神戸市の須磨ロープウェイにある「日本一乗り心地が悪いリフト」というおよそ2分ちょいの乗車時間で人を酔わせることができるすごいやつです。以前タモリさんがいらっしゃったらしくここぞとばかりに写真が貼ってある)

上記に書いている内容だけでも周りの人に多大な迷惑をかけていると思うのですが、私が最近凄く焦って自省しているのは価値観のアップデートができない、ということ。
これが正解と認識したら狭い視界でモグラのように掘り進めてしまう。
思春期の頃のASD世間ズレコンプレックスが酷くて、世間受けする人格になろうと思ってました。
「体育会系でよしとする慣習が正義、根性論、女性らしさとは恋愛で有利かどうか、たくさん友達を作らなくちゃいけない」
どれもインドア派で自閉要素を持っている自分には厳しかったけど、厳しかったからこそ、自分を変えなくてはいけないと焦っていた思春期の頃。
自分が焦るだけならいい。
しかし、私はその考え方を知らず知らずのうちに人に押し付けていたのです。
この見方、視界が、正しいんでしょ?私は変人だけどあなたたちに合わすよ。仲間に入れてよ
という態度を誰にでもぶつけていた。
一番の被害者は妹でした。
妹は、自分のペースを守る、不当な環境はすぐ辞める、合わない友達とは付き合わない、ジェンダーフリーやフェミニズムの考えで生きる。そんな人でした。同じ家庭環境で育っても自分軸でちゃんと軸を確立していました。そんな妹に
そんなんじゃ社会でやっていけないよ
という趣旨のことを何度も言ってしまっていました。私が大変だったからこそあなたのためを思って、というやつです。一番ダメなやつだな。
今や姉妹仲は取り返しのつかないことになってしまいました。
私の考え方が極端だと気づいたのは自分が鬱になって、働き方やジェンダーについて考えたり人に相談したり、調べたり、SNSでたくさんの価値観に触れたからです。つまり挫折しなければ障害があっても自分は社会に適応して人一倍頑張ってると奢りながら、令和の価値観を甘いと見下したり、人を傷つけながら生きていたかもしれない。我ながら怖いことですよ。
「カサンドラ症候群」という言葉があります。
広義の意味もありますが、インターネットでは「ASDの人間が定型発達の周りの人を傷つけてしまうこと」として使われていますね。
私はまさにカサンドラを妹にしてしまっていたし、周りの人にもしてしまっていたことでしょう。
取り返しのつかないこともあるけど、自分が加害者であることはしっかり受け止めないと前に進めないと思っています。
自分は家庭環境やハラスメントの被害者であったときもあったけど、それ以上に加害者でもあることを実感するたびに何度も消えたくなったり、鬱が悪化したりしました。でも私に傷つけられた人のほうがつらいし、これからも人と関わっていきたいし、やっぱり今は死のうとは思ってないから。

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奈良の奥地にある公園です。
人生は道によく喩えられますが、いつも直線なわけではなくて、ぐねぐねしているんですよね。脇道もある。

ASDの人が周りの人とうまくいかない理由はさまざまな説が上がっているけれど、私のように変人コンプレックスを抱えていたり、認知特性が特殊だったり、要因が重なってミスマッチが起こるのでしょう。
ASD本人もつらいし、周りの人にも申し訳ないです。
今まで周りにいた人に謝りたいことがたくさんあるし、仕事でしたミスなんて金銭的損害を考えるとどう責任をとればいいのかと気が遠くなります。
とはいっても私がうずくまってしょげていてもしょうがないわけで。

わからないことは大の大人だけど恥ずかしがらずに聞けばいいし、間違えたと思えば謝ればいいし、SNSのご時世見知らぬ人の人生や考え方からヒントを得ることができます。
正解なんてないまま失敗しながら混乱しながら視界を広げていきたいです。

今ドクターストップがかかっているから仕事はできないけど、もし働けるようになったら、医者と相談しながらしようとか。
物がよく見えなくなるから、GPSバッジをつけて、私の目の代わりに電子に見てもらおうとか。
人やものを頼りながら。

モグラのように視界が乏しく、決まった方向に前進しかできない私です。
周りに土を盛大にかけてしまっていることにも気づかない私です。
モグラが日の光に当たると死んでしまうというのは都市伝説らしくて、地上に出ても餌さえあれば生きていけるんですって。
もう一本道を掘り続けるような生き方は難しいし、それはそれで美学だけど、私は度胸も覚悟もないからそうはいかない。外の世界も見たいのです。
モグラ塚から都会のネオンの光を感じてみたい、人が綺麗だって素敵だっていっているもの一生懸命作っている新しい価値観、全部知りたいのです。
まだまだ鬱も抱えていますし、ゆっくりゆっくりやっていきます。

ASDの人はもしかしたら私と同じような悩みを抱えているかもしれない。
どうしても見えないものは見えなくて、心細く不安かもしれない。
自分の中の無意識に作り上げた正解を突かれると痛くて、柔らかくほぐすことは難しいかもしれない。その繰り返しの日々に疲れているかも知れない。
そんな私とあなたに。

柔らかいことは難しい こたえているくせに
毎度根をつめる君の 微笑んだ皺が綺麗

ー椎名林檎「余興」より

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それでも笑えたらきっと素敵なことです。

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