『魚群記 (目取真俊短篇小説選集1)』

「魚群記」:
少年がテラピアを弄ぶ。
猫がトカゲを、ロシアがウクライナを、イスラエルがパレスチナを、入管が難民申請者を、事業者が外国人技能実習生を、弄ぶように。
そして、それはまた旧日本軍が沖縄の人々を弄んだやり方のようでもあり、日本政府が沖縄に対して行なってきた仕打ちのようでもある。
そして、沖縄の人々もまた。/

【僕が放つ矢の鋭い針先がその標的を貫く。しなやかに跳ねまわる魚の眼球から僕は針を抜きとって、ぽつりと空いた傷口の上に指先をあてる。冷たい感触と抵抗する生命の確かな弾力が、僕の指先に集中した神経繊毛の戦きと興奮を一挙に駆き立て、やがて静かな陶酔に変えてゆく。
僕の指先はなめらかな魚の眼球の上を滑り無限の円運動をくり返す。僕のあらゆる感覚は素晴らしい速さで指先に集中し、魚の生命は瞳孔を起点に急速に失われてゆく。】(「魚群記」)/

フローベールの「聖ジュリアン伝」を思い出した。
生き物を狩る喜び。いつも狩られる側の僕には到底理解できない。
胸の奥に嫌な感じがずっと居座り続けた。/


「マーの見た空」:
虐げられし者への鎮魂譚。深い余韻を残す。
少年の頃に出会った知恵遅れの青年マー。
闘牛の綱さばきが見事で、大人も太刀打ちできないほどの銛の使い手だったマー。
マジック・リアリズムのような手法が用いられているが、特に違和感は感じなかった。
むしろ、表現上必要とされたものだと感じたし、十分にその効果をあげているのではないかと思う。
違和感といえば、最後の場面で女友達のMが主人公をマーの家に誘うが、よりによってMがという感を抱いた。/


「平和通りと名付けられた街を歩いて」:
認知症の祖母ウタの姿が哀しい。
皇太子夫妻の来訪のため、露天商は当日の出店自粛を強要される。
付近を徘徊しては汚れた手で商品を触って迷惑をかけていたウタも、当日は外に出さないようにと家族に圧力かかる。
父はやむを得ず、ウタの部屋に鍵をかけて閉じ込めるが…/


【僕らは排水口の近くに忍び寄った。それは目を見張らずにはおれないくらい夥しい数のテラピアの群れだった。底の方からどんどん湧き上がって来る直径五メートルはあろうかという雨雲のような黒い群れ‥‥‥。貪欲に汚物を喰い漁り、あらゆる在来の魚類を脅かすまでに急速に繁殖して来たこの外来魚のすさまじい生命力に圧倒されて、僕らは口々に感嘆の声を漏らした。】(「魚群記」)/

「魚群記」で、川の中ではテラピアが我が世の春を謳歌していた。
いったい他の魚たちは何処へ行ってしまったのだろうか?
おそらく、テラピアに喰われ、駆逐されてしまったのだろう。
「高等動物」、「霊長類」といわれる人間も、その社会を見れば、認知症高齢者、知的障害者、精神障害者、外国人(アジア・アフリカの)労働者などの弱者は、ことごとく遠ざけられ、隔離され、搾取され、狩られ、駆逐されて行く。
役に立たないから、生産性が低いから、人に迷惑をかけるから、臭いから、汚いから、弱いから。
それは、テラピアが跋扈する川の中の世界と、いったいどれほどの違いがあるだろうか?/

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