金井美恵子『カストロの尻』

読んでいると、文体を強く意識する小説だ。
この文体はどこかで読んだような気がする。
文中に幾つもの挿入句が差しこまれ、脱線に次ぐ脱線の連続で、何処にどうやって着地するのか見当のつかない息の長い文体。
そうだヌーヴォー・ロマンだ。
金井美恵子をググってみると、《ヌーヴォー・ロマンの影響を感じさせる、独特の長大なセンテンスを持った文体》(Wikipedia)とある。
だが、ヌーヴォー・ロマンと一口に言っても、ロブ=グリエもいれば、ミシェル・ビュトールもいるし、ナタリー・サロートやクロード・シモンだっている。


それに、ヌーヴォー・ロマンの翻訳で知られている仏文学者の平岡篤頼氏の講演「ヌ ー ヴ ォ ー ・ ロ マ ン と は 何 か 」によれば、
【彼らに共通するのは、19世紀的な伝統から出られない小説家に対するノン!という姿勢だけ】であり、【《ヌ ー ヴ ォ ー ・ ロ マ ン 》なるものは存在しません!】と断言してさえいる。/


金井の文体にみられる「ヌーヴォー・ロマンの影響」とは、いったい誰のことを指しているのだろうか?
最近、いささかご無沙汰しているとはいえヌーヴォー・ロマンは僕が追いかけているテーマの一つなので、これが気になって気になってどうにもしようがない。
今回は図書館本なので、金井と四人の文体を比較検討してみる時間はないから、当てずっぽうで見当をつけてみることにした。
金井は、ひょっとしたらクロード・シモンの影響を受けているのではないだろうか?
さて、結果は如何に?
今後、金井の作品とヌ ー ヴ ォ ー ・ ロ マ ンの諸作品を読んで行けば、答えは自ずから明らかになるだろう。


【空は曇っているので、特別に描写すべきような月や(左右のどちら側が欠けているのが上弦なのか下弦なのかもわからないし)星だの(輝く星は見えてはいないし、見えていたとしても、私の知っているのはーーと言うか判断できるのはーー北極星とひしゃく型の北斗七星だけだし)は見えず、どんよりとした灰色と青が混ったような色(海と空と砂浜と海水浴で遊ぶ、黒や紺色の海水パンツと赤や青や黄色の水着姿の子供たちを描いた、夏休みの宿題の水彩画の、絵具のついた筆を洗う水を入れた容器の中でいろいろな絵具が混りあって、最終的にはあおぐろい灰色になったような)の丁度映画のスクリーン(スタンダードの比率の、上に真っすぐ立てた親指と横にのばした人差指の左手と下にのばした親指と横にのばした人差指の右手を合わせ作った縦横の比率と同じの)のような窓枠に区切られた暗い曇空(しかし、ここは確か八階か九階のビルの一室なので、曇った暗い青灰色の空には、様々な建物の夜間飛行をするヘリコプターや飛行機用の赤と白の標識燈とかビルの窓や非常階段の常夜燈のあかりで、うすぼんやりとした明るさが反射されていて、今がいったい何時頃なのか見当もつかない)をぼんやり眺め、(以下略)】(「胡同の素馨」)/


【だれもがしまいには、彼女たちの素性を知り、彼女たちの姿になじんだ。可能なときには彼女たちはタクシーを雇い、子供といっしょにぎゅう詰めになって乗りこむのだったが、運転手は貧者を相手にする時の貧者のあの仮借のない強欲さで彼女たちを喰いものにして(といっても彼女たちーーすくなくとも後家ーーが貧乏だったわけではなく、なにしろ、当時はどんな粗末なホテルの部屋でもーーホテルがあったとしてーー豪華ホテルの一室ぐらい高くついたこの地方を旅行するぐらいの余裕はあったのだから、彼(運転手)が見ぬいたのはその種の貧しさではなくて、それとは別の、不幸という貧しさで)、姉妹がおずおずと小声で不満をもらすのにも耳をかさず、(以下略)】(クロード・シモン『アカシア』)/


と書いたからといって、金井の文体は決して読みにくいというわけではなく、プルーストの文体がそうであるように、長さを感じさせないだけの波のような駆動力を具えており、軽みに満ちており、笑いですらもそこかしこに仕掛けられているのだ。

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