デイヴィッド・グラン『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン: オセージ族連続怪死事件とFBIの誕生』

20世紀初頭、オクラホマで暮らす先住民オセージ族の60人以上が命を奪われた「オセージ族連続怪死事件」を描いたマーティン・スコセッシ監督の映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の原作ノンフィクション。

1921年、オセージ族が「花殺し月」(フラワー・キリング・ムーン)と呼ぶ五月、オセージ族居住地に住むモリーの姉アナが失踪する。
さらに、その後オセージ族住民が被害者の殺人事件や変死が頻発する。/

1890年代、オセージ族の保留地の地下で米国最大の石油層が発見され、彼らは巨額の富を手にした。
部族の人々には保留地の鉱物資源から得る利益の「均等受益権」(頭割権)が与えられた。
だが、連邦政府は、先住民を政府の保護を必要とする依存的な部族と見なし、政府が無能力者とみなす先住民に後見人をつけることを義務付けた。
こうした状況下において、オセージ族を被害者とする数多の事件が発生する。
「オセージの恐怖時代」の到来である。その犠牲者は公式には部族の者だけでも24人とされている。/


この本を読んだとき、いや、テレビの新作映画紹介でこの事件の存在を知ったとき、僕はある言葉を思い出した。
それは、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の次の言葉である。/

《合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか?世論にか。多数者は世論が形成するものである。※立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利をもったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるをえないのである。》(アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』)/

※「多数者は世論が形成するものである」:
この部分は、どうしても「世論は多数者が形成するものである」としたいところだが、原文がどうなっているかわからないので、注を付すに留める。/


この事件を契機にFBI(その前身のBI)が誕生するが、はたして、それですべて解決しただろうか?
僕はそうは思わない。
「多数者の専制」は、アメリカの民主主義につきまとって離れない影のようなものなのではないか?
そして、一人アメリカのみならず、わが国も民主主義国家である限りにおいて、こうした危険性を宿命的に孕んでいるのではないかと思う。

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