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一番長かった日のこと

12年前のちょうど今と同じ頃に、娘は「悪性リンパ腫」と診断された。

あの日のことを思い出すと、すべてがスローモーションになる。まるで映画のワンシーンか、悪い夢を見ていたことを後で思い出している時のような感覚。

娘の様子がおかしいと思ったのは、病気が発覚する4か月も前だった。わきの下にできた腫脹から始まり、それが消えてなくなったと思ったら今度は徐々にお腹が膨らんできた。

夏休みに入ると、今度はお腹が痛いと言い出した。お腹を壊しているわけではなく、便秘でもないという。整腸剤を飲ませて様子を見ていた。

思えばあちこちにトリガーはあった。なにか尋常でないことが起きているということに気が付くべきトリガーが。食べる量が減っていた。「お腹がすぐ苦しくなっちゃう」と言っていた。

お盆明け、お腹が痛くてついに動けなくなった。歩くこともできなくなって、はじめて病院に行った。医師はすぐに大きな病院へ行った方がいいと言って、その場で総合病院に電話をしてくれた。

それから市内の総合病院の小児科で検査を受けた。いろいろな検査をして、終わったのは夕方だった。

「お母さんだけお入りください」

そう促されて入った診察室で医師はわたしに告げた。

「お母さん。悪性リンパ腫ってわかりますか」

その病名は知らなかったが、娘の体に、なんだかとんでもないことが起きていることはわかった。

「悪性リンパ腫というのは、血液のがんです」

不思議とその時の情景だけははっきりと覚えている。頭が真っ白になるとはこのことか。頭の芯がジーン、と音を立てていた。手足がしびれて自分のものではないような気がした。それから今度は、いっきに、それまで娘がわたしに訴えていた不調のさまざまと、この病気とが結びついた。

痛恨。

なぜもっと早く気が付かなかった?なぜもっと早く異常を疑って病院に連れて行かなかった?食べられないって言ってたのに。お腹が痛いって言ってたのに。

色々なことが押し寄せて、軽くパニックになったのだと思う。涙があふれてどうしても自分では止められない。娘を一人で待合室に待たせていたから、早く涙を止めて戻らなくちゃ、と思うにつけてなお、あふれる涙。

看護師さんが背中をさすりながら「娘さんはわたしが見てるから、トイレで顔を洗ってらっしゃい。まだ娘さんに泣き顔を見せないほうがいいでしょ?」と言ってくれたのだけははっきりと覚えている。

トイレでひとしきり泣いて、顔を洗い、まだ目が赤かったけど、娘が心配だったので戻った。娘は病院にいることで少し安心したのか、お腹の痛みは朝よりましだといった。(ましなわけなかったのだけど)

「わたしなんの病気だって?」と無邪気に聞く娘に「さてね。まだわからないんだって。もっと大きな病院で検査してもらわなきゃいけないらしいよ」と、なるたけ顔を見せないように答えた。

その病院には小児血液内科はなく、わたしたちは翌日、自宅から離れた市内の病院に行くことになった。

その日のうちに入院し、怒涛の検査が始まった。治療方針が決まった時には秋になっていた。11歳の誕生日の翌日から始まった、辛い抗がん剤治療を繰り返して、退院できたのは半年後のこと。真夏に入院して、退院したのは翌年の春、桜が満開の頃だった。

入院生活は本当に大変だった。本人はもちろん、下の子のケアのことも考えなくちゃいけない。一度にたくさんのことを考えなくてはならず、やらなければいけないことにも終わりが見えない。

そんな生活の中でも、楽しみにしていたことがあった。わたしは自分で言うのもなんだけど、楽しみを見つける天才だと思う。

どんなにピンチでも、どんなにしんどいことでもそれを「ネタ」に楽しんでやろうというフシがある。

だから、娘の病気はそれ自体、とんでもなく辛い出来事だったには違いないのだけれど、家と病院との約1時間の往復も、電車通勤するOLみたいじゃん(その時は専業主婦だった)、とか言いながら結構楽しんでした。

そのうち「電車通勤」にも飽きて、今度は毎日車で通うようになったら、それはそれでロングドライブできるじゃん(運転はもともと好き)などと、それなりに楽しみを見つけられる。

そんな生活の中で見つけたもう一つの楽しみは、散歩だった。病院の近くには大きな川が流れており、川岸は整備されて何キロにもわたる遊歩道になっていた。近くには大阪城もある。

わたしは毎日、娘が院内学級に行っている間、散歩に出かけた。

川にはめずらしい水鳥もいた。ヌートリアもいた。ヌートリアは戦時中に兵隊さんのコートを作るために日本に連れてこられ、戦後にそのまま日本で繁殖しているらしい。

ぴょこぴょこと水面に顔を出しながら泳いでいるさまを眺めているだけでも、自分がなんのために自宅から離れてここにいるのかを忘れさせてくれた。

結果、水鳥には詳しくなったし、大阪市内の地理にもやや詳しくなったし、歩いて都島から大阪城まで行くという(自己)記録も作ったし、なんだかんだで楽しかったという記憶が残ったのはよかった。

母が散歩して水鳥を眺めている間にも、抗がん剤治療でヘロヘロになっていた娘はそれどころじゃなかったかもしれないが、それも考えようによってはよかったかもしれないと思っている。

母親があまり深刻にならず、毎日何かしら楽しそうにしていることで、娘も自分の病気が大変なものだということはわかっていたけれど、悲観している様子は全くなかった。

病気は治るものだと思っていたし、治療もうまくいっていた。

もしかしたら、娘のあっけらかんとしたポジティブさも治療を後押ししたのかもしれないと思っている。もちろん、がんは「気の持ちよう」などでどうにかなるものではないし、実際、娘と同じかそれ以上にポジティブで明るく賢かった同室の女の子は亡くなった。

けれど、その子のお母さんに言われたことがある。「森さんたち親子の明るさや、ポジティブさを見ていると、自分たちもきっと大丈夫だって励まされる」って。

他の人たちを励まそうと思ってやっていたわけじゃないし、そんな単純なことでもない。ただただ、自分たちのことに必死だったのはわたしたちも変わらないけれど、周りにいる人が本当にそう感じてくれていたのなら、一石二鳥、いや三鳥にも四鳥にもなったと思う。わたしも娘もそうやって一緒に頑張れた仲間がいたから元気になれたのだから。

幸いにも娘は治療が成功し、12年間再発もなく過ごしてきた。がんに「完治」という言葉はないのだけれど、たぶんもう大丈夫、と最近はやっと思えるようになってきた。

きのうたまたま、最初に「悪性リンパ腫」という病名を聞いた病院の前を通りかかった。その病院の入り口を見たときに、どっと「あの日」の記憶が流れ込んできて、ちょっとしんどくなった。

いっしょにいた娘とその話をしたけれど、娘はほとんど覚えていなかった。よかった、と思った。脳は辛い記憶を残さないというけれど、あんな辛い記憶はわたしだけでいい。娘には楽しい記憶だけを積み重ねていってほしい、と願った。

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