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Fラン中退

わたしの最終学歴である。ここだけ見ると、お先真っ暗のような響きだ。

高校は、地元岡山の進学校(笑)に通っていたので、周りはほとんど大学に進学予定だった。高校三年生、夏休み終わりの、教室のあのピリピリとした空気を、今でも思い出す。

製菓製パンの専門学校に行きたかったわたしは、そんな空気の中、友達に言い出すこともできず、オープンキャンパスすら、母に行くのを反対されたあたりで、心が折れた。

周りに合わせようと頑張っていたものの、息ができなくなった。対人恐怖症と病名がつき、教室に入ると、例え話でなく実際本当に息ができていなかった。

そこからはほぼ引きこもりだった。カフェめぐりにはまり、カフェと家以外は、どこにも行かなかった。

センター入試は辛うじて受けた。小学生の頃の同級生と、試験会場で出会う。私立大学にエスカレーター式で入学する予定だそうだ。友達と、試験会場で陽気におしゃべりしていた。帰り道でお父さんが買ってくれたコンビニのおでんは、味がしなかった。

自己採点したのかな。5割も取れてなかった気がする。後日センター試験だけ受ければ行ける大学を、先生が提案してくれて、母はその気になり、わたしは無心で言われた通りに願書を書く。その大学に、どんな学部があるのかすら知らなかった。

卒業まで学校に行かず、家でパンとお菓子を作り続けた。たまに学校に行って、友達に食べてもらった。喜んで食べてくれたその子は、東京の有名大学に入学した。

大学の入学式、「高校の延長線でしかない大学」だと分かり、絶望して家で泣いた。高い入学費を振り込んだ母は、嬉しそうにわたしにこう言った。「子どもをみんな大学に行かせるのが夢だったから、本当に嬉しい。わたしは子育てをやりきった。」

授業が始まった。なぜか全員共通の授業で、分数の計算をする。クラスの半数がわからないと嘆いており、絶望してまた家で泣く。

「高校の同級生はもっと楽しい授業をしているはずなのに、わたしは分数の計算をしている。置いて行かれているような気持ちがする。」と、大学でできた友達に相談する。なんという残酷なことをしていたのだろうか。元気かな。あの時はごめんね。

大学2年生までは通えていたものの、もう自分の本心を誤魔化すのは不可能だった。休学し、やりたいことをやりまくった。毎日が刺激的で、だからこそたびたび落ち込みながらも、自分にとっての「本当のこと」を模索し続けた。憧れのパン屋さんに出会い、パン職人になることを決めた。

あんなにこっそり、罪悪感を持ちながら作っていたパンを、今はプロとしてお金をもらいながら作っている。

Fラン中退。馬鹿にしたい奴は馬鹿にしてくれ。わたしは今、本当に幸せである。

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