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友情を哲学する

「東京では友達が少ないから」と言い訳しなくなった。上京したばかりの時は、それを言い訳に引きこもっていたのだけれど、今は友達がいながらも引きこもっている。(つまりはインドアなのだ)

実際に友達が増えた。いや、正しく言うと、自分が「友達」と呼びたい人が増えた。

学生時代の友達とは違い、あらゆる年齢、性別、職業の友達ができた気がする。そうなると、自分が「友達」と呼びたい人と、まだそう呼ぶには気恥ずかしい人との差が気になるようになった。自分は何をもって、「友達」と呼んでいるのか。理想の「友達」のあり方とは。

そんな疑問を抱いていた時に出会ったのがこの本だった。

【友情を哲学する 七人の哲学者たちの友情論】
友情とは、互いが友情を認め合うことで成立する関係である。ならば、互いが友情をどのように定義しているかによって、その関係性はまったく異なるものになる。いま、友情という関係性の多様さを知ることが、人生をいくらか豊かにしてくれるのではないか。アリストテレス、カント、ニーチェ、ヴェイユ、ボーヴォワール、フーコー、マッキンタイア――漫画が描く「友情」のあり方までも参照しながら、哲学者7人の友情観を探る。

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なるほどなあと納得したところばかりだったのだけれど、1番心に残ったところは「友情と恋愛の違いとは何か」というところ。

男女の友情は成立するか、という議題は、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。「男女の友情は、その関係が恋愛へと変化してしまうことを憂慮してしまうため、それは本当の友情とはならない。」という意見から話が展開する。

この意見は、潜在的に異性愛を前提としており、同性愛の存在を無視している。

そもそもなぜ友達を性的対象として扱ってはいけないのか。ここにはキリスト教の十戒のひとつ、「姦淫してはならない」が背景にあると本書では述べている。キリスト教社会において許される性行為は、子どもをもうけるために家族で行われるものだけだった。

そして、この「生殖を中心とした異性愛を正常なセクシュアリティ」と見なす規範が、キリスト教から資本主義社会に継承される。

資本主義社会では、適正な規模の労働力が不可欠であり、つまり、「人口」は極めて重大な要素である。

少子高齢化社会への対策として、生殖を中心とした異性愛を自明視する発言が政治家から飛び出す。「子どもを産みたいと思える世の中にしよう」と。

こうした言説の一つ一つが、「権力によって定義された正常なセクシュアリティ」を人々に刷り込み、内面化させ、その規範に服従させていく。

この一連を読んで、ハッとした。わたしは無意識に社会の中の「当たり前」に流されていないか。無自覚に権力に支配されていないか。

もっと歴史や文化を学ぼうと思う。その上で、友達とどんな関係でいる「自分」でありたいかを、自分で決定する。無意識に決定してしまってから後悔してしまうことほど、切ないものはない。

ざっくりまとめちゃったから、分かりづらいや。そして冒頭の自分は何をもって、「友達」と呼んでいるのか。理想の「友達」のあり方とは。という問いの答えは出ていない。が、その問いについて考える材料をたくさんもらった。

友達もたまたまこれを読んでいるそうなので、また会えた時に話せたら嬉しいな。

同じ本を読み、それについて考え、それぞれの考ええたことを話せるひとがいる。その人が何を考えたのか、知りたいと思える人がいる。

全く、わたしは本当に友達に恵まれている。

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