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パン屋の おはなし あのね     ある町に一軒のパン屋がありました。

ある町に一軒のパン屋がありました。
ある朝のこと・・・・・・
その店の主人がいつものように帳簿をつけるため椅子に腰をおろしました。
作業場では若い衆たちが、できたてのミルクパンをオーブンからだしています。
・・・帳簿をつけ終わった主人が一つため息をつきました。そして何か遠くを見るように目を上げました。   ・・・そう何かを思い出したように・・・・。

まだ駆け出しだった頃、彼が出会ったあの女(ひと)のことかしら・・・・・              
できたてのパン工場、熟練者もいればパン生地に触れたこともないような仲間達。その中で青年と呼ぶには少しムリのでてきた彼はパン職人としての一歩を踏み出したのでした。     

初めのうちは、仲間達の名前を覚えるのもままならないくらい忙しい毎日でした。なにせ超素人集団でしたから・・・                          

そんな中、唯一ほっとできるのが休憩時間。一人でやる仕事が多いミキサー(生地つくり)に居る彼にとって、仲間の存在を確認できる楽しいひとときでした。
体と心にため息一つ・・・熱いブラックコーヒーとハネパン(ダメパン)
・・・・・そんなある日
『あれっ』
『なんだか とってもいい気持ち・・・なんでだろう?』
『あぁ   素敵な人がいる 誰だ? ・・・・わかんない でも・・確かにいる』
今この休憩室にいる誰かに違いないのです・・・・・・不思議な感じです。
その女の声が心に・・・そう心に気持ちよいのです。顔の浮かぶ女・名前のでる女・・・皆違う・・・    でも、パンを作る楽しさ、気力を与えてくれるような・・・あああこの部屋にいるのにねえ
『誰だっけ?・・・わかんないなああ   まっいいか・・・』

そんな日々はしばらく続きました。
はじめは小さな不思議ですんでいたんですけれど、仕事に疲れてくると、あの優しげな微笑を探し求めるようになっていきました。そしてこれまた不思議と、その度に希望と勇気を受け取ることができたのでした。

季節にはめずらしく一晩中外が霧に包まれた夜のこと、・・・・

彼は夜勤で、少し離れたところから生地をこねているミキサーをボンヤリとながめていました。
そのときです
あの優しい雰囲気を感じたかと思ったら、ミキサーのところに一人の女が立っていました。

機械の動く音・パンの型のぶつかりあう音・・・・工場の中はけっこうにぎやかなんです。
なのにその人の声は、はっきりと聞こえてきました。
「ミルクパンと霧は大の仲良し・・・・おいしくなりなさい・・・」
まるで、ミキサーの中の材料たちにかたりかけているようです。そう言い終わるとその女は成形室へと入っていきました。
彼は後を追いました・・・
「あのひとだ!」
成形室の中には二人の男の人をふくめてパートやアルバイト、7・8人が・・・
会話もほとんどなく、もくもくとできあがった生地に姿をあたえています。
彼はよく話をする一人に聞きました。
「今 ミキサーのとこにいた?」
「え?」
『どうして?』と聞かれる前に彼は、
「今誰か入ってきた?」
他の人には聞こえないように小さな声で聞いてみました。
彼女は首を横にふるばかりです。
あのひとを追いかけて成形室に向かったときには・・・・彼女の背中が見えてました。
だから彼女ではないんです・・・・・
『誰なんだろお』
しかたなく持ち場に戻る彼でした。
戻りがけ ふと振り向くとあのひとがニッコリ微笑みかけました。
『あっ!』
一瞬でした・・・。
そしてまた、にぎやかな音が彼の耳に帰ってきました。
優しい、楽しい、そして勇気を与えてくれる・・・
ひと・声・雰囲気・・・確かに・・・いる!・ある!
でも、そのひとが誰なのかわかりません。
『まるで・・・』と少女マンガの題名を思い浮かべようとしてできないでいる彼に、〔おおお~い〕と声がかかり、彼はオーブンのほうへ駆けていきました。
・・・・彼の心の中に、あのひとの存在が日増しに大きくなっていきました・・・・

・・・・彼より先に休憩時間を終えた女性達が部屋からぞろぞろ出て行きます。・・・・・・・・・・・
最後の一人がでていったあと、彼はため息といっしょにタバコの煙をはいて、疲れた体を大きく伸ばしました。
『ん!』
ふと目を上げた時、出口のところにまだ人がいて、
彼は疲れた姿を見られてちょっと恥ずかしくなりました。
『ん!!』
そう、あの優しい雰囲気がただよっています。
『あっ このひとだ!』

顔を見ようとしたとき、そのひとは一つあたまをさげて出て行きました。
『これからは、パンたちの声を聞いてあげてね  さようなら・・・』
・・・言葉だけが残りました。
追いかけたい。  でもそうしてはいけないような気がして・・・
「ありがとう・・・」
もう誰もいない出口に向かって言いました。

あの優しさが一瞬彼をとりまいたかと思うと すっと離れていきました。
その日から、あの優しい微笑みを見つけることは出来なくなってしまいましたけれど、そのかわりにパンたちのにぎやかな声が聞こえてくるようになったのです。

あのひとは  パンの精だったのかしら?・・・

「ミルクパンと霧は大のなかよし・・・・か」

主人が小さくつぶやきました。
焼きたてミルクパンの香りが主人の机にあいさつにやってきました。
「よし!」
主人は両の手でふともものあたりを、パンパンとたたいて作業場へとはいっていきました。   

・・・・・・・・・・・・・・・・・・パンたちの  声を
                         聞いてあげてね・・・・・・・・・・・・
                                        おしまい

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