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埼玉のギャルが大赤字の老舗和菓子屋に入社した話

創業135年の和菓子屋をかの六代目の萌美です。
だいぶ期間が空いてしまってごめんなさい。

実は、お店にお越しいただくお客様も
このNoteを読んでくださっている方がいると知り、
色んなことを曝け出して書いても良いのか
読んでガッカリする方もいるのではないかと
ずっと悩んでおりました。

でも、今一所懸命に頑張っている萌美も
実はこんなにポンコツな奴のかと知ってもらうことで、
こいつで出来るなら私も頑張ってみようと思ってくれる
誰かのきっかけになる方が私にとっては嬉しいし、

読んでみてイメージとは違うかもしれないけど
をかのの和菓子の美味しさや
私たちのお客様への想いは変わりません。

ということで書いてみました。
どうか温かい目でご覧ください。

高校生


女子高生の頃。
私は親の望むようないい子ではなかった。

親の目を盗んでは夜中に家を抜け出し
コンビニで買ったさけチーとリプトンをお供に
地元の友達と公園にたむろしてオールしたり、
先輩のバイクの後ろに跨がり不揃いな
ミッキーマウスマーチのコールを聴きながら
埼玉の渋谷的存在『大宮』に行ったり、
当時の私なりに精一杯の大人っぽい格好をして
年齢を誤魔化してクラブへ行ってみたり。

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↑彼氏じゃないよ。DJ PMXだよ。


色んなきっかけで押さえつけられていたものが
一気に爆発し水を得た魚のように毎日毎日遊んでいた。
(このきっかけの話はあまりにも赤裸々になってしまうから
後ほど有料記事にまとめようかな、、)



でも、私は悪い子でもなかった。


オールしても学校をサボったことは一度もなかったし、
成績不良にならない程度には勉強もしたし、
万引きやいじめは絶対にしなかったし、
むしろ気は弱かった。今思うと気が弱いから
見た目だけでも強くなりたくて
ギャルを目指したのかもしれない。

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↑化粧がバレるだけで謹慎になるくらい校則が厳しい学校だったので普段はこれで過ごして、放課後と休みの日はウィッグ、長期休みは髪を染めていました。

そんな根は真面目だけどガラスのハートの
ギャルもどきな私は周りの友達に合わせて
毎日だりーだりー言いながらも、
『人の役に立てるような仕事がしたいな』
なんてひっそり考えていて
心理カウンセラーを目指していた。
その為には人の気持ちを考えられる人間になろうと
つまらない授業中に毎日色んな小説を読んで過ごしたり
テストの問題用紙に毎回人生設計を書いたり
将来の自分を想像し夢を膨らませていた。


しかし進路を本格的に決める時、問題が起こった。

私の行きたい大学の心理学部は
なんと数学と統計学が必修科目だったのだ。

終わった。

私はピーマンと同じくらい数学が大嫌いだ。
数字アレルギーで計算式をみた瞬間手が震えるし、
連立方程式がなんなのか26歳にして未だに分からないし、
中学の頃の北辰テストでは
(埼玉限定の偏差値が出るテスト)
毎回偏差値が30前後だった。

ちなみに普段の数学のテストは、担当のおじさん先生が
私が卒業する時に使ってる定期券(suica)をくれるなら
テスト前日に答えを教えてあげるという約束で
毎回なんとか赤点を逃れていた。
私の定期券飾ってるのかな。


今の私ならやりたい事のためなら我慢して勉強するだろうけど、
根性なしの当時の私には大学に行ってまで
数学をやらなきゃいけないなんて到底考えられなかった。


さてどうするか。


人の為になりそうな仕事ランキング(私の独断と偏見)
第一位の心理カウンセラーになれないとすると第二位はなんだろう。

うーーーん、、、


パッと顔を上げたその時担任と目が合った。

あ、第二位だ。

そう、教師である。
しかも高校の国語の先生なら数学要らないのでは?
という事で進路が決まった。安直すぎる。

幸いにも当時国語だけは割と出来た。
なんと北辰テストでは国語だけ最高偏差値が72だったこともある。数学との差が激しすぎる。

そして毎日小説を読んでいた事が功を奏したのか
9月のAO試験では(面接と小論文のみの試験)
倍率13倍の中1番の点数で合格したらしい。
決して頭のいい大学ではないが(失礼)
あの萌美が教育学部に入るという事が
高校の先生の間ではちょっとした騒ぎになり
毎日色んな知らない先生からもおめでとうと言われたり、
一番怖いと恐れられてる先生からは
よくやったなとこっそりコンビニの
どら焼きをもらったし、
校長室に呼ばれて一瞬褒められた後
校長の若かりし頃の武勇伝を1時間も語られた。
長すぎて一ミリも覚えていない。

そんなこんなで私は高校を無事卒業し
夢の大学ライフが始まった。


大学生

しかし、現実は理想とかけ離れていた。

元々頭が良くない上に勉強嫌いな私は
すぐに授業に追いつけなくなったし、
学校までの通学時間が片道2時間もかかるもんだから
バイトで遅くなると朝早くて起きられないし、
起きれないから近くの友達の家に泊まらせてもらうと
余裕ぶっこいて起きられないし(クズ)、
同じ大学に進学した当時付き合ってた彼氏の
束縛があまりにも激しすぎて全く自由に
行動できなかったし、
学部の子はみんな優しかったけど、
私はどこか馴染めなくて
お昼はトイレで食べたり空き時間は
図書館に一人でいたり、
他の学部の子のところへ行ったりした。


元々の仲の良い友達はみんな
就職したり他の大学へ行ってて、
お金を稼いでいたり新しい事を始めている様子を見て
なんだか自分だけ置いていかれた気がした。

そして極め付けは小学校へ実習に行ったときだ。

小学校の教頭先生から説明を受けてる時、職員室から聞こえてくる先生同士の会話は聞いてて嫌になる程悪口ばかりですごく居心地が悪かった。

教頭先生から担当の先生を紹介された時、悪口を言っていた片方の女の先生がやってきた。

あ、合わないな。

その直感は当たり、要領の悪い私は毎回先生から嫌味を言われた。(私はADHDよりなので恐ろしく要領が悪いのです)嫌味を言われるのが怖くておどおどして余計にミスする沼にはまっていた。

そして思い出した。

いつも誰かしらの先生に目つけられるんだよな。
てかそもそも私先生って嫌いな人多いんだよな。と。

今更すぎる。やはり馬鹿である。

やっぱり先生になりたくない。


やりたい事を見失ってしまった私は
このままなりたくない教師を目指すべきか
普通のOLを目指すべきか
それなら学部を変えるべきか
悩んではいながらも、何も行動しないまま
ただ同じ毎日を繰り返していた。

そんなある日、突然母が入院してしまった。
どうやら脳の近くに腫瘍ができたらしい。

命に関わるような病気ではなかったが
初めての母のいない家はシーンとしていて
なんだか落ち着かなくて
何度も入院している病院に行ってしまった。

そんな時、いつものようにふらっと病院に行くと
ドア越しに父と母の会話が聞こえてきた。

今後会社をどうしていくか、、

私は父が40歳の時に生まれた子の為
二人とも結構な年齢だ。
母が入院したことで改めて考えたのだろう。

そして、そこで私も初めて考えた。

継ぐ人がいないと会社はどうなるんだろう。
従業員たちはどうなるんだろう。
今買ってくれてるお客さんはどう思うんだろう。

心配にはなったが気が弱くて要領の悪い
努力嫌いな私には経営者なんて絶対に無理だ。
誰かがなんとかするだろう。
そう思ってすぐに考える事をやめた。


転機

それから数日後。
コンビニへ行こうと家を出て歩いていたら
同級生のお母さんにばったり会った。

萌美『おーー!!久しぶり!!○○くん(息子さん)元気?』

そう聞くとそのお母さんは

友母『元気だよー。萌ちゃんは?お店継いだの?』

と言ってきた。

萌美『え、継がないよ。なんでそんな事聞くの?』

友母『卒業式の時言ってたじゃん!お母さん達みんな萌ちゃんが継ぐの楽しみにしてるんだよ』

うちの小学校は私たちが最後の卒業生で廃校になってしまった学校で、一学年40人しかいなかった為卒業証書をもらう前に将来の夢を発表するのだ。

確かにそんな事言ってたような気もする。

気になりすぎて行こうとしてたコンビニへも行かず走って引き返して当時のビデオを探し出した。

電源をつけ再生してみる。

ジーーーーーーーーーーーーー。

そこには明るすぎるライトに照らされ真っ白になりながら、まっすぐ前を見つめ大きな声でをかのを継ぎます!と言う小学生の自分の姿があった。

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その光景を見た瞬間。
ぶわーっと鳥肌が立ち、心臓が弾けそうになった。
これはワクワクの最上級だ。

そうだ。私は大好きなお店を継ぎたかったんだ。
大好きな人たちと、大好きな桶川市で。

パン屋さん、八百屋さん、甘味処、定食屋さん、クリーニングやさん。
年々無くなっていく大好きだった商店街のお店と共に私自身の記憶やあの頃の気持ちも無くなっていたのだ。

改めてこれからの事を考えてみた。

私の将来の目的は人の為になる事。
あくまで教師は手段だ。

目的が変わらなければ、手段は変わっても良いのではないか?
お店を継ぐ事によって自分の家族や従業員、をかののお菓子を好きでいてくれるお客様の為に繋がるかもしれない。

よし決めた。継ごう。



絶対経営者には向いていないし、先はどうなるか分からないけど、こんなにワクワクしているのは生まれて初めてだった。それなら一度きりの人生、今のダメダメな自分よりもよっぽどかっこよかった小学生の時の自分を信じてみよう。

その日の夜、すぐ親に継ぎたい意思を伝えた。

二人とも目ん玉飛び出るんじゃないかってくらい驚いていた。寿命縮めてたらごめん。少しは嬉しい気持ちもあったとは思うが、それよりも心配の方が大きかったのだろう。表情は暗かった。

そりゃそうだ。表面上は全く分からないが大赤字なのだから。

でも会社の経営状況を全くわかっていない私は喜んでない二人の姿が謎すぎて、やるったらやる!の一点張りで三日後には大学の担任(うちの大学の教育学部は担任がいた)に学校を辞める意思を伝えた。

祖父からは、せっかく公務員になれるかもしれないのになんでわざわざ泥舟に乗ろうとするんだと散々怒られた。でも私は会社の経営状況を一ミリも理解してないから(大事な事なので2回言う)泥舟の意味が全く分からなかったしはいはいと聞き流した。当時にこんな経営状況だって事をちゃんと噛み砕いて説明されてたら怖くて継げなかったと思う。

大学を辞め、さすがに世間を知らなすぎる状態でそのまま実家を継ぐのは、、と思い当時バイトしていたアパレルの会社にそのまま就職した。今思えば広告とか、マーケティングとか、営業とか、デザインとか、他社の和菓子屋とか活かせそうな仕事をすればよかったのかもしれないけどその時はすぐにでも社会に出たかったので、何にも考えずに就職した。まじで後先考えないマンすぎる。

でもアパレル時代のおかげで新規のお客様を掴む難しさや顧客様のありがたさも学んだし、従業員として働いたおかげで従業員の立場の気持ちも理解出来る。

そして何より、当時は寝坊するわ、やる事は忘れる。
やっちゃいけないミスに限ってやらかす本当にポンコツでどうしようもない私を、見捨てずにしょうがないなと面倒を見てくれた上司たちのおかげで私は普通の社会人と同じように時間通りに出社し、毎日の業務をこなせるようになった。

伝説になるくらい服を売ったわけでもない。
むしろ人より売るのは苦手だった。

でも頭も悪くて要領も悪い
自分に一度も自信を持てたことのなかった私が
普通の人と同じように社会人として働けた事は
生まれて初めて自信を持てた成功体験だった。

だから誰がどう言おうと
あの時アパレルで働こうと決めた
選択は本当に正しかったと思います。


そして2年が経ち、アパレル会社の新宿店が
閉店すると同時に退職しをかのに入りました。

ここから私の和菓子屋人生がスタートします。


まとめ

いかがでしたでしょうか?

以前ストーリーの質問コーナーで継ぐまでの経緯を話したところ、ありがたいことに沢山の方から反響をいただき残して欲しいと言っていただいたので、初めてしっかり文章として残してみました!遅くなってしまってすみません。

読んでくださった方の中には、いい話!という方もいれば、想像通りだわーという方もいる、萌美ちゃん最低!!がっかり!!という方もいると思いますが、これだけは言わせてください。

私のことは嫌いになっても
をかののことは嫌いにならないで下さい!!!!

ということで次回は入社後から今に至るまでの話を書きたいと思います。

フォロー、スキ等していただけますととても励みになりますので良かったらお願い致します。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

萌美

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