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咸陽はどうなったのか問題──劉邦軍・項羽軍の所業、長安との連続性

ヘッダ画像は渭水の北にある秦咸陽宮遺址博物館

 歴史雑記124
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はじめに

 咸陽といえば秦の首都である。
 戦国後期には圧倒的な軍事力を誇り、ついに統一を達成した国家の首都であるから、さぞかし繁栄したことであろう。
 とはいえ、往時の咸陽についてはよくわからないことが多く、「項羽が阿房宮に放火して三ヶ月燃え続けた」という俗説がなんとなく受け容れられているのが実情である。
 そもそも、『史記』には一言も項羽が焼いたのが阿房宮であるとは書いていないのだが、ともあれその辺りも含めて一度整理しておく必要があろうかとこの記事をしたためる次第である。

始皇帝時代の咸陽

 咸陽を建設し、都を遷したのは、商鞅(変法については異説もあるが、有能な将軍であったことは間違いない)を登用したことで知られる孝公である。
 遷都は孝公十三年(前352)とされるから、統一の140年前である。統一を達成した始皇帝が、始皇三十五年(前212)に「始皇以為咸陽人多、先王之宮廷小」を理由に渭水の南側に阿房宮の建設を開始する。
 この頃には、すでに咸陽城は渭南にまで拡大していた可能性が高い。

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