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章邯考①──「刑徒二十万」は兵となったか

 歴史雑記048
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 秦に名将の多かったことは、『史記』のよく伝えるところである。
 白起、王翦、蒙恬など列伝のある人物はもとより、白起の少し前の世代にあたり、蜀を滅ぼした司馬錯や、「変法」という虚構で知られるが実際は対魏戦線で活躍した商鞅など、枚挙にいとまがない。
 そんな名将たちの掉尾を飾るのが、陳勝・呉広の乱を半年で鎮圧し、項梁を討ち取った章邯(しょうかん)である。
 今回から数回にわたり、章邯について書こうと思うが、間に他の記事が挟まるかもしれない。また、まとまったら章邯関連のみでマガジンを作るつもりなので、それから読むというのでもよいかなと思う。
 さて、今回はまず、彼が最初の出撃に際して率いた兵──驪山の刑徒とされる──について、若干の考察を加えたい。

関連記述を洗い出す

 章邯の率いた兵が刑徒であったことは、さほど疑いを挟まれることもなく、通説的に扱われている。
 こういったあまり検討されていない通説を見直す場合、まずは関連する記述の洗い出しが必要になってくる。
 幸い、『史記』はフルテキストがあちこちのデータベースにあるので、検索ボックスに各自のセンスで単語を打ち込んでいけば、関係のないものまで含めてずらずらと表示される。
 台湾の中央研究院はこの手のデータベースとしては老舗で、台湾では90年代から電子テキストを盛んに用いていたという(大庭脩先生の本にそういう話が出てくる)。
 話が逸れたが、そうやって出てきた記述をざっと読んで、関係のないものは捨て、関係のあるものを集めて並べ替えるというのが基礎的な作業になる。

驪山の刑徒を率いた説

 秦始皇本紀は『史記』のほかの部分と同様に複数の原史料からなるが、年代記的記述が豊富であったり、現在は失われた刻石の銘文を採録する。
 驪山というのはいまで言う始皇帝陵(その墓域全体をいうか?)だが、その造営について下記のように見える。

(始皇三十五年)隠宮徒刑者七十余万人、乃分作阿房宮、或作驪山。

 冒頭の「隠宮」は「隠官」(刑期を終えた罪人)の誤写という説があり、それがよいと僕も思うのでそれを採るが(そうでない場合は「宦官」説となり、色々と座りが悪い)、そうすると70万人以上の罪人たちが、始皇帝陵や阿房宮の造営に従事していたことになる。

 次に引用するのは、同じく秦始皇本紀だが、二世二年のものである。

(二世)二年冬、陳涉所遣周章等将西至戲、兵数十万。二世大驚、與群臣謀曰「柰何」。少府章邯曰「盜已至、衆彊、今発近県不及矣。酈山徒多、請赦之、授兵以擊之」。二世乃大赦天下、使章邯将、擊破周章軍而走、遂殺章曹陽。

 ここでは章邯の登場、刑徒を兵としての出撃、そして陳勝の武将である周文(章は字とされるので仮に従う)を敗死せしめたことが記される。いわゆる通説は、基本的に上記の記述に基づいているといってよい。


章邯登場までの情勢

 章邯の登場は、秦の首都である咸陽が脅かされるという危急のタイミングとなっている。
 二世元年七月(秦の歳首は十月)に大沢郷で蜂起した陳勝・呉広らの勢力は瞬く間に拡大し、しかもそれを見て他にも続々と兵をあげるものが出現した。
 陳勝は陳に入ると王を称し、国号を張楚と定めるとともに、各方面に軍を派遣した。このとき、将軍に任命されて関中を目指したのが周文の軍であった。
 周文は楚の遺臣で、項燕や春申君に仕えており、軍事に通じているということであったようだ。実際に軍事に精通していたかどうかはともかく、周文が手強い相手であったことは間違いないだろう。
 二ヶ月足らずの間に、戦車千乗、歩兵数十万を集め、ついには関中の東の守りである函谷関を抜いたのである。秦の歴史上、函谷関が抜かれるのはおそらくこれが初めてである。
 二世元年九月、周文は戯に陣を敷いた。咸陽を防衛すべく、二世皇帝は決断を迫られていた。そこで登場するのが章邯なのである。

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