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薄氏──魏王室に連なる漢文帝の母

 歴史雑記043
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 混迷の時代には往々にして一発逆転が起こるもので、当人は流されていただけでも、最終的には大勝利に至ったりする。
 これは逆もまた然り──計算高く動いているつもりでも破滅することが当たり前──だが、それはそれとして、うまくいった例の方が明るくていいよねという意味も込めて、知名度の低い前漢文帝の母・薄氏をとりあげることとする。

魏王室の血を引く身として生まれる

 薄氏の人生というものは、僥倖の連続である。その第一にして筆頭に挙げられるべきは、魏王室との血縁であろう。
 『史記』外戚世家は以下のように述べる。

 薄太后、父呉人、姓薄氏、秦時與故魏王宗家女魏媼通、生薄姬、而薄案死山陰、因葬焉。

 要するに、薄氏の父は呉人なのだが、統一秦時代に旧魏王家に属する女性との間に薄氏を儲けたということであるらしい。父の薄某については呉人であることしか分からないから、記録するほどの身分ではなかったのだろう。

魏王豹の後宮に入る

 さて、前210年に始皇帝が死ぬと、全土に反秦反乱の嵐が吹き荒れる。
 旧六国は続々と復興し、魏にも魏咎が立った。このあとの経緯はややこしいので少し端折るが、魏咎が死に、秦が滅び、項羽が十八王封建を行なっても、旧魏の西部には西魏王として魏豹(魏咎の弟)が未だ王として在った。
 薄氏はこの魏豹の後宮に入ることになった。もちろん、母系で王室に連なっているからであろう。薄氏が魏豹の後宮に入ったのは、おそらく前207〜206年の間のことであろう。このとき許負という人物が「天子を産むだろう」と予言したというが、後付けであろう。
 そして、魏豹は楚漢戦争の序盤でその地位を失うことになる。

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