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吉野ヶ里は邪馬台国ではない──日本古代史の「レイヤー」

 歴史雑記141
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※ヘッダ画像は復原された吉野ヶ里遺跡北内郭。吉野ヶ里歴史公園ウェブサイトより引用。

はじめに

 吉野ヶ里遺跡で発掘調査が行われており、速報がニュースになっている。
 歴史や文化にかかわることがニュースになる、それ自体は喜ばしいことである。
 しかし、下記の(他にもあるが)記事はよろしくない。

 有料部分で詳しく述べるが、はっきり言ってしまうと、吉野ヶ里遺跡と邪馬台国は、現在では年代が合わないことが明らかになっている。
 それをぼかして、「いわゆる邪馬台国時代」という言い方をするのは、何重にも不誠実で、なにより正確ではない。
 学術的な調査の結果を歪めて伝えることは問題である。ただでさえ、『土偶を読む』のせいで考古学への風当たりが強くなっているのだから、失策のようなことは慎むべきだろう。

 というわけで、邪馬台国と吉野ヶ里遺跡はどう時期がずれるのか、そして時期的に付合する纏向遺跡や文献史料についても述べることにする。
 一番重要なことはすでに書いたので、論証過程や近年の研究成果に興味のある方はよければ以下も読んで欲しい。

邪馬台国の年代

 上掲の記事で、佐賀県の担当者という人が「いわゆる邪馬台国時代」という妙な表現を使っているが、そもそも「邪馬台国時代」などという時代区分は存在しない。
 それをそのまま拾って記事にする共同通信もよくない。この姿勢は改めていただきたい。

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