張良雑考①──留に高祖と遇う
歴史雑記092
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※ヘッダ画像は張良で、上に劉邦が見切れている。張良の絵としてはあんまりなよなよしていない方だろう。明治期の『通俗楚漢軍談』の挿絵より。(以下も同様)
はじめに
張良といえば、秦末漢初でも人気のある人物であり、彼の名は広く知られている。
では、張良が何をした人なのか、というと「劉邦にいろんなアドバイスをして、劉邦がそれを採用して天下を取ったので名軍師である」というような、どうもふんわりとした評価が通行している。
これは本邦だけがそうというわけでもなく、中国においても、少なくとも『史記』がよく読まれるようになってからはそうであったらしい。
張良の事績を記した留侯世家は説話が多く、年代記的な記述に乏しいし、功臣表の功第の部分もどうも抽象的である。
だから「『史記』がふんわりしているから、ふんわりするのだ」とも言え、この辺りはなかなか難しい。
右ページの左側が張良、右は「蒼海公」とあるが、始皇帝暗殺のための力士を紹介した「倉海君」のことと思われる。
史料の絶対的な不足
要するに、『史記』編纂にあたって、そのプランを実行するために必要な史料の量が、ある意味で足りていなかったのである。
その傍証として、「秦記」という秦の年代記の存在が挙げられる。
これは、六国年表の序において、『史記』編者自らが、「六国の史書が湮滅されて参照することができず、ただ「秦記」のみを見ることができた」と告白するところから、前漢中期にはあったことがわかる。
しかし、これは秦の年代記の原本そのものではないらしい。
というのも、秦本紀において昭襄王以降の記述が急速に充実するのはまだ理解できなくもないが、それでも内部に矛盾があったり、最も充実していて然るべき秦始皇本紀に説話が大胆に挿入されているなど、「秦記」が一国の史書であったとすれば、些か貧弱に過ぎると思わざるを得ない。
『史記』の出現以降に「秦記」が伝わらないことも不審であるが、これらの諸問題は「秦記」が漢代以降の二次的な編纂物であったと考えれば筋が通る。
つまり、『史記』の秦本紀・秦始皇本紀等は可能な限り「秦記」に取材し、それでも埋まらない部分は『戦国策』等の説話で空隙を埋める。
結果として、「秦記」はおおよそ『史記』に吸収され、単行する必然性がなくなったために、独立した書物としては亡佚したのであろう。
長くなったが、『史記』における史料の不足、原史料ごとの性格の違いは、あちこちで我々の歴史認識に影響を与えている。
そのことを前提に、今回は張良と劉邦をつなぐ人物について考えてみよう。
劉邦と張良のアイデンティティ
張良が劉邦の陣営にあって異色の出自であることは、改めて語るまでもないだろう。
彼は韓の宰相の家系に生まれ、秦末に至って韓の復興を目指して蜂起する。意識としてはもちろん韓人である。
いっぽうの劉邦については、長く楚人と考える向きが多かった。
しかし、現在では魏人であると考えられている。ここで詳述はしないが、そもそも沛や豊は魏が建設し、魏の領内から移された民が居住した邑である。
張良と出会うきっかけも、この旧「魏」アイデンティティが大きく関わってくる。
ひとまず、韓人・張良と魏人・劉邦という理解を頭にとどめておいてほしい。
陳勝の蜂起と旧六国の動向
さて、時間軸的にはようやく秦末反乱が始まるのだが、そうするとやはり陳勝の話をしておかねばならない。
二世元年に蜂起した陳勝は、七月に陳で即位するが、翌年十二月には敗死する。
ややこしいのだが、秦の暦は十月が歳首であるから、陳勝が即位してから敗死するまでは足掛け6ヶ月しかない。
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