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張良雑考③──張良と楚政権

 歴史雑記100
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ヘッダ画像は連環画より、項梁の挙兵直前のシーン。右端が項羽で、その左が項梁である。

はじめに

 第一回の記事で、張良は留に駐屯していた景駒のもとで劉邦と出会ったことを論じた。
 劉邦と張良は、ともに景駒(すなわち「楚」勢力)の後ろ盾を得るために留を訪れたわけで、双方ともに意図したわけではなく、まったく偶然の出会いであった。
 劉邦の目的は、まずは旧魏勢力に呼応した雍歯に乗っ取られた豊邑の奪回であり、それに対抗するために必要な楚勢力の援護を、まずは得たわけである。
 張良の目的は、韓の復活であるが、当時の情勢的にすぐにこれを望むことはできなかった。そのため、張良の立場は曖昧なものであった。
 しかし、張良には劉邦にはないものがあった。すなわち人脈である。
 今回は、劉邦が景駒勢力の援軍を得てから、項梁勢力がこれに取って代わるまでを、劉邦と張良の2人を軸に見ていくことにしよう。

張良の人脈

 始皇帝の死後、旧六国の系譜を引く勢力が急速に勃興したことからも分かるように、彼らは統一秦の統治下でも独自の連絡ルートを持っていたと考えられる。
 これを強調するのが劉邦集団を任侠的結合とみなす説であるが、劉邦に限らず、地域の有力者はそれぞれに(半地下的な)ネットワークを持っていたと考えていいだろう。
 呂后の父・呂氏もそうであるし、労役から逃亡した黥布も該当しよう。旧六国の王族などは最たるものである。
 ここではほかの例の詳細は省くが、張良にもそれはあった。

居下邳、為任俠。項伯常殺人、従良匿。(留侯世家、本記事の出典は以下すべて『史記』によるため書名は略す)

 これは、下邳時代の張良が、殺人を犯した(しかも「常に」とある)項伯を匿ったという記事である。
 項伯の名は纒といい、項羽の叔父にあたる。少々先走るが、項梁亡きあとも楚政権で重きをなし、項羽滅亡後は劉邦によって列侯に取り立てられ、劉姓を賜与されている。
 出自のよさにもかかわらず、自らの勢力が極めて小さかった(百人ではどうにもなるまい)張良にとって、人脈は大きなカードであった。

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